苫小牧市民文芸事務局長 山上 正一さん(75)人の役に立つ喜び 複数の団体事務局掛け持ちで 「社会への恩返し」 縁の下で支える

  • ひと百人物語, 特集
  • 2021年2月13日
自宅の書斎でくつろぐ山上さん
自宅の書斎でくつろぐ山上さん
父や弟たちと6歳の山上さん(左から2人目)=1952年ごろ
父や弟たちと6歳の山上さん(左から2人目)=1952年ごろ
上京した山上さん(左から2人目)=1966年ごろ
上京した山上さん(左から2人目)=1966年ごろ
結婚して第1子を授かった頃の山上さん=1977年
結婚して第1子を授かった頃の山上さん=1977年

  自然観察グループや文学サークルの事務局長などとして活動してきた山上正一さん(75)。幼少期から体が弱く、病気のために大学を中退して以降は「余生のような人生だった」と振り返る。複数団体の事務局を掛け持ちした時期もあり「人の役に立つことが喜び」と語る。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って巣ごもりの風潮が生まれたことや75歳を契機に役職を下り、子どもの時から好きだった読書を楽しんでいる。

   太平洋戦争が終わった1945年の11月、美唄市で3人きょうだいの長男として生まれた。総合物流事業の最大手、日本通運社員だった父は転勤が多く、間もなく砂川市に転居。中学1年生まで同市で過ごした。その後再び美唄市に戻り、三井美唄鉱業所などがあった地区の三井美唄中(現南美唄中)に転校。炭鉱で栄えていた当時は知識人が多かったといい、「本を配達するアルバイトで親しくなり、クラシック音楽を聴かせてくれる家もあった」と懐かしそうに目を細める。

   美唄東高に入学すると、日本育英会(現日本学生支援機構)の特別奨学資金を得た。1学年10学級約500人のうち、2人しか選ばれない栄誉だった。当時、授業料は1600円。山上さんには毎月3000円が支払われた。

   しかし、幼少期からの持病の肺炎が重篤化し、軽度の結核を発症。修学旅行などの課外活動ができなくなった。奨学金の残りは文庫本購入などに充て、自然と読書の時間が多くなった。病気は大学受験や大学生活にも影響し、教師の夢も断念。北海学園大経済学部に入学したものの、手術のために1年で退学を余儀なくされた。

   一方、入院先で知り合った医学生で作曲家の楢崎義一氏と意気投合。童謡歌手、大庭照子に「倖(しあわ)せのテーマ」を作詞し、レコード化される縁もできた。退院後は「余生を楽しもう」と、療養を兼ねて東京や秋田、八戸などを転々とし、1970年に札幌市内の機械工具メーカーの事務職として就職。紙の加工機械を扱う関係で苫小牧市に移住した。

   50歳から、持続できる趣味を持とうと山登りを始めた。動植物などへの興味が尽きなくなり、市内で児童向けの自然観察会や植樹活動を展開してきた自然観察グループ「まゆみの会」に入会。会員高齢化に伴う2017年の解散まで事務局長を務めた。

   郷土文化や縄文文化関連の団体でも事務局を担った。事務局は団体の縁の下の力持ち。「今になって思うと社会への恩返しのつもりだったかもしれない」と遠くを見詰める。現在は文学サークル以外の団体は役職を下り、月20冊をこなす読書の時間を楽しむ毎日だという。(半澤孝平)

   山上 正一(やまがみ・しょういち) 1945年11月、美唄市生まれ。64年北海学園大経済学部を結核により中退。苫小牧市博物館協議会委員(2008~14年、3期)、苫小牧生涯学習研究協議会委員(10~14年、2期)など。苫小牧市明野新町在住。

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