北海道鉄道OB会苫小牧支部事務局長 蛯澤 曙美さん(83) SL機関士に憧れて 国鉄職員の職務に誇り 重労働で体も真っ黒

  • ひと百人物語, 特集
  • 2021年2月6日
「周りの仲間や先輩、後輩に助けられ、ここまで生きてこられたよ」と振り返る蛯澤さん
「周りの仲間や先輩、後輩に助けられ、ここまで生きてこられたよ」と振り返る蛯澤さん
母のキシノさんと。右が2歳の蛯澤さん=1939年ごろ
母のキシノさんと。右が2歳の蛯澤さん=1939年ごろ
苫小牧機関区の事務係になった頃=1965年
苫小牧機関区の事務係になった頃=1965年
事務係として従事していた頃。苫小牧機関区でSL「D51」と=1973年
事務係として従事していた頃。苫小牧機関区でSL「D51」と=1973年

  元国鉄職員らでつくる北海道鉄道OB会苫小牧支部で、事務局長として15年近く活動する蛯澤曙美さん(83)。同会が5~11月に毎月行っている苫小牧市科学センター保存の蒸気機関車(SL)「たるまえ号」の清掃活動には、ほとんど毎回参加している。現役時代は事務職でSLを操縦することは無かったが、「国鉄、JRに勤めることができてよかったよ」と笑顔を見せる。

   1937年、樺太(サハリン)で生まれる。馬車で木材を運ぶ仕事をしていた父は5歳の時に事故死。太平洋戦争が終わった後の46年7月、母と義父、生まれたばかりの弟とオホーツク管内小清水町に引き揚げ、48年に千歳市協和に開拓者として入植した。

   約4キロ離れた安平町立追分中学校に通いながら、2人の弟の世話や開墾作業に汗を流す日々。土地はササが地中30センチ近くまで根を張り、「大きなくわを思い切り振り上げなければならなかった」と苦労を語る。作業が忙しく学校になかなか行けず、学力の差でいじめられたこともあったが、開墾で鍛え上げられたおかげでけんかには強く、次第にいじめは無くなった。

   その後、新しく完成した千歳市立東千歳中学校に転校し、卒業後は追分高校の定時制に通いながら建設会社で働いた。毎日、夕張方面から石炭を積んでやって来る長大なSLを見ていたことから、国鉄で機関士として働くことを夢見ていたという。高校3年生から数回、入社試験を受け、58年2月に晴れて職員として国鉄追分機関区苫小牧支区に配属となった。

   当初の役割は「燃料係」で、苫小牧駅北口付近に建っていた給水機に登り、SLへの給水、石炭をスコップで積み込む作業と、石炭の燃えかすを貨車に移す作業がメイン。夢見ていた機関士の仕事とは異なり、毎日が重労働で体も真っ黒になったが「国鉄職員になる夢はかなえることができた」と自分に言い聞かせた。

   その後、気動車の給油係を経て、65年に苫小牧機関区事務係に。気動車の修繕費の決算や、100人近くいた機関士一人一人の時間管理や給与計算などをタイガー計算機を使って担当した。「計算を間違うと機械から『チーン』と音がする。最初の頃はよく先輩からうるさいと怒られていた」と懐かしむ。民営化でJRになって以降も、90年に退職するまで事務主任として従事した。

   現在、OB会では現役時代の経験を生かし、最新のパソコンで会費などの計算を担当する。「いずれ若い人に引き継いでもらいたいが、やはり人のお金を扱うから事務経験が重要だね」。そう話す表情には、現役時代と変わらぬ風格がにじみ出ていた。(小玉凜)

   蛯澤 曙美(えびさわ・あけみ) 1937(昭和12)年5月、樺太(サハリン)生まれ。現在は息子3人、孫2人に恵まれ、パソコンの操作が分からないときに手助けしてもらうことも。趣味は家庭菜園、囲碁。苫小牧市東開町在住。

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