「胆振国勇払郡入鹿別殖民区画地、七線二五番、二七番、一 未開地拾町歩」と書かれた土地の払い下げに関する願書があります。所在地の横に土地の見取り図が示され、入鹿別殖民地区画図の地番表記と一致しています。7線25番であれば、7線道路と4号道路の交わる十字路の北東に接する区画の土地であることが図面上で一目で分かるようになっていました。
入植者の開拓が進み、明治末から大正初期にかけて農業者が40戸ほど居住していたようです。原野の通水を改善するために結成した入鹿別水田組合を1913(大正2)年に鵡川村土工組合へ変更し、鵡川両岸のかんがい排水路を整備する一大事業が始まります。目算1700町歩に及ぶ入鹿別原野の開発と将来性を担保とした高額の土地取引があったという話もあり、原野を中心にヒト・モノ・カネが動く活況を呈しました。
翌14年、富山出身で札幌を拠点に下請けからのし上がった地崎宇三郎氏がかんがい排水路の整備事業を請け負いました。15(大正4)年5月に完成したのですが、流量不足や水害が重なり、水路の修復、水利改良を目的とした増設や取水口を変更するなど大規模な設計変更を繰り返したため、深刻な資金難に陥ります。組合員の負担も大きく、離農者が続出して土地の購入を希望する者がいなくなるなど入鹿別は再び原野に戻りつつありました。そこで19(同8)年、地崎氏の尽力で故郷の富山県から20戸に入鹿別へ入植してもらい、道庁の働き掛けを得て室蘭で医業を経営する佐藤富太郎氏が私費で入鹿別原野の開拓計画に参入しました。
佐藤氏が現地の下見をした時、一面芦原で覆い尽くされた区画の確認に大変苦労をしたという話が『鵡川土地改良区史』に紹介されています。排水路は23(同12)年に完成。その後も大水害のたびに修理改修し、現在の姿に至っています。
そして28(昭和3)年に試験的に実施した客土工事が成果を挙げ、40(同15)年からは道庁の馬客軌道を借用して全域の客土事業が始まりました。農業の進展とともに戸数は順調に増え、3号道路より北を上入鹿別(現在の田浦二区)、南を浜入鹿別(現在の田浦一区)とし、43(同18)年の字名改正で現在の田浦という地名が生まれたのです。
洋画家の加藤一彩氏が、教員であった若い頃に制作した鵡川町鳥瞰(ちょうかん)図という絵があります。これは55(昭和30)年ごろの鵡川の姿を伝えるもので、鵡川市街の後背には田浦と小さく記入した広大な水田が描かれています。大正時代の村勢要覧に書かれた「原野ヲ化シテ美田タラシムルト信ズ」の熱い思いが、この鳥瞰図に描かれているような気がします。
(むかわ町教育委員会、田代雄介学芸員)
※第1、第3木曜日掲載