苫小牧との最初の縁は三笠市の三笠中2年生だった1967年、中学軟式野球の北海道大会に出場したときだった。各地区の予選を勝ち抜いた参加校が、開会のセレモニーで苫小牧市大町の一条通りを紙吹雪が舞う中行進した。「あの情景は今でも覚えている。すごかった」と渡辺臣章さん(67)は懐かしむ。
5年後、苫小牧市役所に就職した。大会時に宿泊した錦町の旅館で数日を過ごし、旧北海道拓殖銀行(表町)で庁舎の場所を訪ねながら辞令交付式に向かったのはいい思い出。渡辺さんの約半世紀にわたる苫小牧での野球人生が始まった。
住友奔別炭鉱(三笠市)で働いていた父の弟が同社硬式野球部でプレーしていたこともあり、幼い頃から野球に夢中だった。5人きょうだいの4番目で「とにかくやんちゃ坊主」。自宅前でバッティング練習をして窓ガラスを割り、父の雷が落ちるのもしばしば。もともと左打ちだったが「ガラスを割らないように右バッターにさせられた」とはにかむ。
中学時代は主に遊撃手として活躍した。67年に苫小牧開催された道大会では1回戦で赤平茂尻と接戦を繰り広げるも0―2で惜敗。三笠高では公式戦出場こそなかったが、同校は69年に南北海道大会を初制覇して夏の甲子園に出場した。当時1年生だった渡辺さんは地元三笠に残り、アルバイトをしながらラジオ観戦した。「何とか打ってくれ」と戦況を見守ったが、1回戦で松商学園(長野)に0―14と無安打無得点試合で敗れた。
社会人になってからは所属部署内にできた軟式野球チームの全水道苫小牧、朝野球の花長フラワーズ(当時)で投手などを務め各種全国級大会を経験。また、苫小牧市役所クラブの一員として国民体育大会にも計5回参加し、2003年には優勝メンバーにもなった。
当時主力を担っていた谷澤康則、濱口正光、澤田義文、千葉浩らと共に60歳以上の還暦軟式野球チーム苫小牧シニア倶楽部で野球を続けている。「もうひとカテゴリー若い舞台でも十分通用する」頼もしい仲間たちに支えられながら、監督兼捕手として道選手権4連覇、2度の道選抜大会優勝などチームを道内屈指の強豪へと押し上げた。
「野球は一球、一プレーごとに考える独自の奥深さがある」と渡辺さんは競技の魅力を語る。昨年は新型コロナウイルスの影響で還暦カテゴリーの道内、全国大会がすべて中止になった。「成果を披露する場所が早く戻ってきてほしい」と願うばかりだ。野球仲間が増えることも期待する。「19年には70歳以上の古希チームもできた。興味がある人は一度でいいから練習に足を運んでほしい」と呼び掛けた。
(北畠授)
渡辺 臣章(わたなべ・たみあき) 1953(昭和28)年5月、三笠市生まれ。高校まで地元の学校で野球に励み、三笠高卒業後に苫小牧市役所へ就職。職域や朝野球などの軟式野球チームに所属しながら、各種全国大会に出場してきた。2013(平成25)年から還暦軟式野球の苫小牧シニア倶楽部に所属。監督兼捕手を務め北海道選手権4連覇、全国大会3年連続出場など輝かしい成績に貢献している。苫小牧市豊川町在住。