入鹿別原野の開拓(上) 碁盤の目状に区画整備

  • THE探求 歴史から伝える「むかわ学」, 特集
  • 2021年1月21日
上空から撮影した田浦地区の風景

  2018年春先、学校の先生と一緒にむかわ町田浦地区を題材とした郷土史の調査として、社会科のフィールドワークに同行しました。田浦地区について、自分自身も掘り下げて調べたことがなかったため、まずは町史を開き、史料調査を継続したところ、同地区の歴史は、北海道の開拓計画と密接なつながりのあることに気が付きました。

   地区を流れる入鹿別川の流域は、かつて入鹿別原野と呼ばれた広大な湿地でした。町史によると、明治のかなり早い頃から下流域に小規模の入植が始まり、1892(明治25)年ごろには丸日日野木工場が河口にあって、原木を夕張の鉄道工事へ送っていたそうです。会社の事務所では永井正忠氏(後の鵡川神社の初代神職)が講師となり、従業員の子弟を対象とした教育所が開かれました。

   この頃、苫小牧から静内へ至る国道が整備されます。鵡川市街の中央通りは明治期に整備された国道の名残です。鵡川橋から鵡川交番辺りの道路沿いに旅館、商店、官公庁などさまざまな建物が移り市街地の原型が少しずつ形成されました。97(同30)年、新たな入殖地の確保を念頭とする地域調査の報告書『殖民地選定報文』が道庁から刊行され、初めて後の田浦地区のことが殖民地候補イルシュカペツ原野(入鹿別原野のこと)として紹介されました。火山灰と泥炭地の土質を主とし、水はけの悪い同原野は、農業を発展させるために土地のかさ上げと排水が喫緊の課題でした。

   重機やトラックもない時代、原野の工事は簡単な話ではありません。1902(同35)年、前年の大凶作を背景とした救民事業の一環で入鹿別道路の工事が行われました。鵡川市街から厚真方面へ行く道道千歳鵡川線の原形となる道路でしたが、沼地の作業に加え不慣れな者も多く、資金不足も重なり、大変な難工事になったそうです。

   当時の入鹿別原野の姿を知ることができる史料があります。日露戦争直前の04(同37)年1月15日に初版が刊行された『胆振国勇払郡入鹿別殖民地区画図』です。現在の鵡川市街の中央通りと道道千歳鵡川線が交差する十字路から入鹿別川へ至る旧国道の直線を基線として、北側に広大な碁盤の目状の区画が設定されました。図面には、排水路や防風林地の表記もあり、入鹿別殖民地区画図の内容は、現在の田浦地区で見られる区画割りと大差はありません。碁盤の目の南北線は一線から八線まで、東西線は1号から6号まであります。線と号の交わる部分に標ぐいが打たれ、基本的には縦横300間の方形区画を1区画としました。この中をさらに6区画程度に分割し、左下から右上の区画に向かって順に番地が設定されました。

  (むかわ町教育委員会、田代雄介学芸員)

   ※第1、第3木曜日掲載

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