青森県八戸市で三菱製紙、宮城県石巻市で日本製紙から設備管理などの業務を請け負い、製紙工場の操業を支えてきた松本鐵工所。震災では約80人の社員は全員無事だったが、津波で工場が打撃を受けた。当時社長だった松本紘昌会長(75)は10年前を振り返り、「災害があることを前提に企業経営をしなければ」と決意を新たにする。
震災直後、最優先で対応したのは従業員の安否確認。時間はかかったものの1週間で全員の生存が分かり、「最後の1人が見つかった時はみんなで安堵(あんど)した。無事が第一だった」と語る。
ただ、事業所の被害は深刻だった。発生2週間後に被災地入りしたが、八戸工場は2階建ての事務所が流され、工場にもがれきが入り込み設備は壊滅状態。石巻工場も製紙用の大型機械が泥をかぶり、複数の貨物輸送用コンテナが工場内に散乱していた。
復興の陣頭指揮を執る中で最優先に掲げたのは、顧客の復興。事務所や休憩所も失ったため、作業の拠点となる場所をそれぞれの敷地内に設けた。工場設備の早期復旧には部品交換も必要だったが、物流機能がまひし、工具や部品が不足。緊急対応で全国の事業所からかき集め「1年間で延べ100人の社員を現地に送り、復旧を後押しした」という。
社員に対しては雇用を守ることを早々に伝えていた。「先行き不安な中での仕事は難しい。安心してもらいたかった」とし、非常事態時のトップの在り方を「後ろから掛け声を上げるのではなく、前面に出なくては」と力を込める。
社員の団結した復興への取り組みが奏功し、11年8月には石巻工場で8号抄紙機が稼働を再開。「本当にうれしかった。みんなよくやってくれた」。他の機械も徐々に動き始め、翌年6月には印刷用紙を製造するN2マシンの稼働で全工場の機能が復帰。八戸工場も1年後に再開した。
震災を教訓に、社内で従業員の安全を大前提とする防災マニュアルを策定し、避難手順や連絡網をまとめた。緊急用の食料や防寒シートなども備蓄。本社と委託業者による二重のデータのバックアップ体制も構築するなど、万が一の事態に備える。
全国10カ所に事業所を構える同社。「工場が1カ所だけなら、倒産や大きな負債を抱えていたかもしれない」と回顧する。震災から10年。災害時のリスク分散も視野に、主力の製紙産業や自動車産業、空港関連設備の受注以外の業務多角化を進める考えだ。
(平沖崇徳)