市川彦太夫は、原半左衛門と共に第1陣の移住隊に参加した隊士の一人です。1801(享和元)年6月9日に、病人を内地へ護送するため一時帰国した後、7月17日に蝦夷地へ出発し、06(文化3)年正月9日に死去しています。
市川彦太夫の墓石はざらざらした岩肌むき出しの、自然の形をそのまま生かした砂岩石を用いたもので、大きさは高さ57センチ、幅30センチほど。鵡川流域で普遍的に見られる灰色の砂岩とよく似ています。「武州江戸 八王子 俗名 市川彦】太夫墓 文化三歳 寅正月」と記された墓石の銘文の下に大きな菊花の彫刻が見られます。1901(明治34)年ごろに汐見で発見された後、長らく永安寺で保管していました。
その後、八王子千人同心に関する調査が進み、83(昭和58)年に有識者立ち会いのもと、永安寺の境内から市川彦太夫の墓石が再発見されたことが苫小牧民報の83年5月13日付紙面で報じられています。様似等澍院の過去帳に、戒名「青雲院久拓量遠居士」と併せて「武(鵡)川地役 市川彦大(太)夫」の記録が残されており、解隊後も彦太夫が地役御雇として鵡川にいたことが分かります。
「エンドトノ(江戸の武士)がコタンの浜の近くで色々なものを耕作していた」「エンドトノがうちのご先祖である」という趣旨の地元のアイヌ民族の伝承が町史に紹介されています。また、幕末の探検家松浦武四郎の記録からむかわ町の汐見では近代以前より農耕が盛んに行われていた経緯が伝えられており、移住隊士とアイヌ民族の間に親密な交流のあった様子がうかがえます。
市川彦太夫墓石は、江戸時代の文献や現地のアイヌ民族の語り伝えを実証し、むかわに現存する唯一の遺物として高い歴史的価値のある文化財であると言えるでしょう。宮戸の鵡川大漁地蔵尊(イモッペ地蔵)の境内には、85(昭和60)年8月に鵡川大漁地蔵尊奉祀160年記念事業の一環として設置された、八王子千人同心追悼之碑があります。ちょっと立ち寄って、むかわの歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
(むかわ町教育委員会、田代雄介学芸員)
※第1、第3木曜日掲載