八王子千人同心市川彦太夫墓石 鵡川開拓とアイヌ民族の交流

  • THE探求 歴史から伝える「むかわ学」, 特集
  • 2020年12月3日
八王子千人同心隊士、市川彦太夫墓石の拓本

  今年の初夏、鵡川永安寺の石崎紀彦住職にお願いし、江戸時代の市川彦太夫という人物の墓石の銘文を記録する目的で拓本をとらせていただきました。市川彦太夫は19世紀初頭に開拓と北方警備のため北海道へやって来た八王子千人同心隊の移住隊士の一人です。

   1800(寛政12)年、武蔵国多摩郡八王子(現在の東京都八王子市千人町)に拠点を置く武士とその子弟の一部が蝦夷地に移住をする出来事がありました。彼らは通称「八王子千人同心」と呼ばれる人々で普段は農業をして生計を立て、農民と同じように年貢を納め、時には幕府の命令を受けて武士の活動に従事していました。身分制度の厳しい江戸時代では珍しい半士半農ですが、甲斐の戦国大名であった武田氏に仕え、主家の滅亡後は大久保長安の誘いを受けて徳川家康に仕え、八王子に住むことになった経緯があります。

   1799(寛政11)年、箱館から知床半島に至る太平洋側の領地を幕府が松前藩から取り上げました。蝦夷地では1604(慶長9)年に松前慶広が徳川家康の許しを得て以来、アイヌ民族との交易を事実上独占していました。しかし、18世紀の中頃からロシア人が千島を南下してアイヌ民族と関わり、日本にも交渉を求める動きがあった事実を幕府に秘匿していたことに対する処置として上知されてしまったように思います。

   この出来事を契機として1799(寛政11)年3月、八王子千人同心の組頭の一人である原半左衛門胤敦が蝦夷地の警備と開拓を幕府へ願い出ます。翌年3月に原半左衛門を中心とする原組の師弟合わせて100人が蝦夷地移住へ参加することとなり、20日に弟の新介が43人を率いて先発。翌日、半左衛門が57人を率いて続きました。箱館に着くと、新介は50人で勇払に拠点を置くこととし、半左衛門も50人で白糠へ向かいます。

   勇払の隊士たちは鵡川の汐見に畑作場を開き、13軒ほどの家に分散して開拓に従事していたようです。1802(享和2)年の収量は大麦2石7斗、小麦8斗、粟8斗、大豆13石9斗、小豆6石6斗、蕎麦(そば)8石6斗、黒豆7斗6升、菜種2斗、粟(あわ)8斗、大根1万8000本。穀類合わせて35石1斗6升として一応の成果は上がりましたが、満足に食べていけないことは明白でした。

   現地の生活苦が伝わったためか、蝦夷地へ移住した第2陣の開拓志願者は30人と少なく、後が続きません。開拓も思うように進まず、北海道の厳しい寒さに耐える知識や冬場に栄養を管理する技術に乏しいなどの事情が重なり、04(文化元)年までに原半左衛門が状況を把握していた移住隊士130人のうち、32人の死者を出して開拓は中止となりました。原半左衛門は箱館奉行調役に配置換え、新介も有珠虻田の牧場の支配調役となり、配下で希望する者は地役御雇として引き続き現地で従事しました。鵡川には43人が残ったということです。

  (むかわ町教育委員会、田代雄介学芸員)

   ※第1、第3木曜日掲載

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