㊥七重村に移住、箱館戦争に参戦

岩橋教章「函館戦争図絵」(1869年)、函館市中央図書館蔵

  1858(安政5)年3月、開拓と北方警備を目的として、石坂組同心組頭秋山喜左衛門の子息である幸太郎が蝦夷地移住願を出し、4~50人が志願して移住した。移住先は箱館(現・函館)近郊の地域(七重村、藤山郷)であり、千人同心の多くは七重村(現・渡島管内七飯町)で幕府が経営する七重村御薬園の周辺で、開墾や養蚕業に従事した。養蚕、織物業の生産、流通が盛んな”桑都”(八王子の美称)出身の彼らには、蝦夷地の産業促進に寄与することが期待された。

   しかしその後、68(明治元)年に箱館の五稜郭に拠点を置く榎本武揚を中心とする旧幕府軍と、新政府との間で戊辰戦争が起こり、最後の戦い(箱館戦争)が勃発する。千人同心は箱館府在住隊(千人隊)として箱館戦争に参戦し、蝦夷地移住を先導した秋山幸太郎が七重村中蔦において戦死した。千人同心の一員である山本登長が記した「峠下ヨリ戦争之記」には「運のきりめ(切れ目)が幸太郎遠玉一ツみけん(眉間)に当りうんともいわす仰向にとふ(飛ぶ)とたふれ(倒れ)ける【中略】よき(余儀)なく其侭打捨引取ける」とあり、旧幕府軍との戦闘で、眉間に銃弾を受け落命した秋山幸太郎と、敵方の銃撃によって秋山の遺体を回収できなかった仲間の状況が生々しく描かれている。

   新しい時代は、多くの犠牲のもとに幕を開けた。千人同心の二度目の蝦夷地移住はその悲惨さを後世に伝えている。

  (佐藤麻莉学芸員)

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