「1はシネプ、2はトウプ、3はレプ…」。口元に入れ墨(シヌイエ)を施した祖母が、かやぶき家屋チセのいろりのそばで、アイヌ語の数え方を教えてくれた。哀愁のある響きの即興歌ヤイサマも聞かせてくれた。母親が病に倒れた5歳の頃から1年半、預けられた白老コタン(現在の白老町大町・高砂町付近)の祖父母宅でアイヌ文化に触れた記憶が今も残る。チセの外で子熊を育て、儀礼イオマンテ(熊の霊送り)を取り仕切るなど、民族の精神文化を大切にした祖父母との生活。それが後にアイヌ語教室を主宰する自身の活動の原点となった。
鵡川町(現むかわ町)で写真店を営んでいた父の宮本登(1988年死去)は両親共にアイヌの家系、母ツエ(2012年死去)は門別村(現日高町)出身の和人。自身は9人きょうだいの三女として育った。偏見の目が向けられがちだったアイヌの血を引いているからといって、いじめを受けたことはなかった。だが、心の奥底で言いようのないコンプレックスを抱いていた。
中学の社会科授業での出来事を鮮明に覚えている。「先祖の出身地はどこか」。入植の歴史にちなんだ教師の質問に他の生徒は本州の地名を挙げた。一方で自分の父方の系譜は北海道の先住民族。「先生は分かっていたのでしょう。だから、あえて私には聞かなかった。それが逆につらかった」。母に教室でのことを話したが、「ルーツを恥じることなどない。堂々としなさい」と一喝された。その言葉に救われた気がした。
苫小牧市の高校を卒業後、民間企業に勤めた。当時は昭和の高度成長で観光ブームに沸いた時代。会社を辞め、アイヌ文化を観光資源にした白老町ポロト湖畔のポロトコタンで1965年から母が営んでいた土産物店を手伝うようになった。木彫り熊などを扱う53店が軒を連ねたポロトコタンに連日、観光客が押し寄せ、子育てしながら店の切り盛りに追われた。
50歳の時だった。ポロトコタン関係者から、白老に開設されたアイヌ語教室へ誘われた。ふと、民族の精神性や風習を捨てようとしなかった祖父母の姿を思い出した。「祖先の言語を失いたくない。一から勉強してみよう」と懸命に学んだ。98年に自ら教室を立ち上げ、未訳のままになっているウエペケレ(昔話)など口承文芸筆録の翻訳にも挑んだ。
ポロトコタンは民族共生象徴空間(ウポポイ)整備地となったため、2009年に店を閉じた。経営から身を引いた後も教室を続け、高校教師ら7人の生徒と共に今、登別出身の口承文芸伝承者・故金成マツの筆録を読み解く作業に取り組んでいる。アイヌの言葉の美しさと奥深さに50歳を過ぎて気付かされた。「先祖が残したこの素晴らしい文化を命ある限り、世に伝えていきたい」と思っている。
(下川原毅)
大須賀 るえ子(おおすが るえこ) 1940(昭和15)年4月、白老町生まれ。苫小牧東高卒。熊狩り名人と呼ばれ、白老の伝統的アイヌを代表した宮本イカシマトク(1876~1958年)を祖父に持つ。主宰するアイヌ語教室は毎年、口承文芸などの研究成果の本を発行、教育機関などに配布。白老町緑丘在住。