北海道は相撲王国。子どもの時はそう聞かされていた。そのシンボルともいえる元横綱の北の富士さんが亡くなった。
北の富士さんは、オホーツク管内美幌町生まれ。留萌市の小学校を経て、中学の半ばからは旭川市へ。スポーツ万能で道内の多くの高校から勧誘があったそうだが、結局、中学卒業と同時に相撲部屋入りした。文字通りの道産子だ。
幕内優勝は通算10回の大横綱であったが、引退後は指導者として千代の富士、北勝海という2人の道産子横綱を育て上げた。長年、相撲中継でも解説を務め、率直な語り口で人気を呼んだ。いつもおしゃれで、歌もプロ並みにうまいことから華やかな印象が強い。
ところが、同じく相撲解説で活躍する舞の海さんが北の富士さんについて書いたコラムにはこうある。「父が事業に失敗し、訳も分からずトラックに乗せられること3度。夜逃げだったという」。子ども時代は大変な苦労をしていたのだ。舞の海さんの文章は、「華麗な人生を歩んできた、とばかり思っていた。誰しもが忘れられない思い出を胸に生きている」という言葉で締めくくられていた。
北の富士さんは、戦中の昭和17(1942)年生まれだ。北海道には本土のような戦火は及ばなかったが、昭和20年には広範囲で空襲が行われ、2000人近い犠牲者が出た。青函連絡船も標的にされたという。戦後の生活環境も厳しいものだっただろう。
診察室でも時々、戦中戦後の生活について語ってくれる人たちがいる。中には樺太から命からがらで家族で引き揚げてきた、東京大空襲で焼け出されて逃げ延びてきた、などという人もいる。でも、そんな苦労の跡は少しも見せずに、今の生活を精いっぱい頑張り、楽しみを見つけながら暮らしている人がほとんどだ。「大変でしたね」と声を掛けると、「誰だって同じようなものですよ」と笑顔で答えてくれる。
おそらく北の富士さんにも、北海道での苦労話や思い出話がたくさんあっただろう。ただ、普段はそれを顔にも口にもほとんど出さず、現役時代は相撲の稽古に、その後は後進の育成や解説を通しての相撲の普及に打ち込んできた。とはいえ、横綱にまでなった2人の弟子が北海道出身だったところを見ると、郷里への思いは人一倍だったのではないだろうか。
北海道の忘れられない思い出を胸に人生を生き抜いた、昭和の大横綱。その人生に拍手を送りたい。
(むかわ町国保穂別診療所副所長、北洋大学客員教授)