鵡川天保の石灯籠 数少ない近世ムカワの石造物

  • THE探求 歴史から伝える「むかわ学」, 特集
  • 2020年10月15日
鵡川天保の石灯籠

  以前、鵡川中央小学校の改築工事があった時、校門近くの庭木のある場所から江戸時代の石灯籠が見つかりました。地域の言い伝えによると、1977(昭和52)年に当時鵡川小学校の用務員さんが学校の前庭から掘り出し、銘文から天保年間のユウフツ場所に何か関係があるらしいと現地で保管していました。天保の石灯籠として町史に掲載されたのですが、あまり人目に付かない場所に安置したため、若い世代にはほとんど知られることなく、平成の終わりに再発見されました。

   天保の石灯籠は、花こう岩を手作業で加工したもので高さ約80センチ、幅約50センチ。通常は7、8個の部品を積んで一つの灯籠を組み上げるのですが、天保の石灯籠は笠、さお、基礎の部品のみが現存し、それ以外は失われていました。

   灯籠のさおに楷書で彫られた銘文があります。毛筆で下書きをして槌(つち)と鏨(たがね)で一字ずつ丁寧に彫り込んだものです。「御神燈 天保五年三月吉日 ユウフツ支配人中」「御神燈 天保五年三月吉日 ユウフツ番人中」と読め、勇払浜に商場を開き、白老から鵡川辺りの海岸一円で手広く漁場を経営した山田文右衛門請負のユウフツ場所に深い関わりのあることが分かりました。

   山田文右衛門は、8代目有智の時に商圏を大きく拡大し、ユウフツ場所を手に入れた豪商です。松前に本店を置き、函館と江戸にも支店を持っていました。勇払川の河口に大きな運上屋を建て支配人、番人、通訳を置き、周辺に住むアイヌ民族を労働力にばく大な利益を上げたことは広く知られています。紀年銘の存在から天保の石灯籠は9代目喜長の時、鵡川に寄進されたものと考えられます。

   鵡川流域では穂別辺りを上ムカワ、下流域を下ムカワに分け、アイヌ民族と交易をする場所として松前藩士が知行していました。1799(寛政11)年に幕府が蝦夷地を直轄して、運上屋を会所に改めた経緯からシコツ場所として16カ所あった商場が集約され、ユウフツの会所を本拠地とするユウフツ場所になります。

   太平洋沿岸で山田屋が請負した商場では勇払恵比寿神社の方位手水鉢や石灯籠、門別稲荷神社の鳥居など数多くの寄進物が残されています。船絵馬や献額なども多数あり、海運の無事を祈るものが多く見られます。むかわには石灯籠を置く小さなお社があったのかもしれません。詳細ははっきりしませんが、1908(明治41)年、韓国の皇太子李垠が伊藤博文と共に北海道を行幸した時、天保の石灯籠が再び登場します。鵡川では特別のご休憩所が木村旅館に用意され、婦人会から多数のお手伝いが出ました。町史に当時の婦人会の写真が掲載されており、女性たちの傍らに天保の石灯籠と思われる石造物が写っています。宝珠受花、火袋、中台がなく、発掘時の状態とよく似ています。石灯籠は郷土資料保管庫で保管しています。

  (むかわ町教育委員会、田代雄介学芸員)

  ※第1、第3木曜日掲載

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