フリースタイルスキー・男子エアリアルの2018年平昌冬季五輪日本代表だった田原直哉さん(39)がこのほど、幼児向け体操教室の特別指導のため苫小牧市を訪れた。体操競技で日本代表にまで上り詰め、けがをきっかけに25歳で冬季競技に転向して五輪出場の夢をかなえた異色のアスリート。「スケートのまち苫小牧でも、エアリアルがより知られるようになってほしい」と願う田原さんに競技の魅力や次の冬季五輪出場を目指す北京大会に向けた抱負を聞いた。
―エアリアルの魅力とは。
スキー板を履いて急坂を駆け下り、大きいと高さ4・2メートルにもなるジャンプ台から空中に飛び出して体を回転させ着地する。細かいルールを知らなくても、一目見てすごさが分かる競技。誰しもができる訳ではない特殊な競技性も、魅力の一つと思っている。
―けがを機に思い切った競技転向をした。
小学生から始めた体操競技では、結果が出るごとにオリンピックへの思いが強くなった。特に05年は7月のNHK杯で個人総合5位に入って10月の東アジア大会に出場。08年の北京五輪に向けて意気込んでいたが、その年の冬に右肩を痛めて練習すらできない状態に陥り、体操での五輪出場は断念した。
夢を諦め切れず、肩のリハビリ活動中にテレビで偶然目にしたトリノ冬季五輪(06年)のエアリアル競技を思い出し、一念発起した。ゲレンデスキー自体経験したことがなかったので、今でもシーズン終了後の4~5月は通常のスキー板で滑走練習に取り組むなど苦労はある。それでも、競技を極める過程に日々充実感を覚えている。
―18年に念願の五輪出場を果たした。
緊張するかなと思っていたが、平常心で臨めた。ただ、思い通りのジャンプができたかといえば、そうではない。直前のワールドカップ(W杯)で3位入賞。五輪でもメダルを取るつもりでいたが、結果は19位の予選落ちだった。得たものはたくさんあった半面、悔しさが多く残った。
―12月で40歳。次の22年北京冬季五輪を目指し続ける理由は。
平昌でかなわなかったメダルを次こそ取りたい。2年ほど前からアシスタントコーチを兼任し、若手育成にも力を入れている。22年の北京冬季五輪には、新種目の混合団体も追加された。後輩たちが強くなっていくことは、日本や僕自身にとっても大きい。
―世界は新型コロナウイルス禍にあるが、これからについて。
世界で主流の3回転を飛ぶために必要な練習専用ジャンプ施設が国内にはなく、例年8~9月にカナダのケベック州で合宿しているが今年はコロナの影響で中止。長野県白馬村にある一段低いジャンプ台での基礎練習に多く時間を割いた。10月に国内、11月にフィンランドで合宿してそこでW杯初戦に出場する予定。
今冬から北京に向けた戦いが本格化する。満足に練習は積めていないが、W杯で表彰台に上がるチャンスは必ず出てくるので焦らずにやっていきたい。
―苫小牧でスポーツを志す子どもたちにメッセージを。
今回の体操教室イベントで出会った子たちが、いつか僕の存在を思い出したときに「エアリアルをやってみたい」と少しでも思ってくれたらうれしい。北海道の人は雪やスキーに慣れている。苫小牧から将来エアリアル選手が出ることを期待したい。
田原直哉(たばら・なおや) 1980年、和歌山市生まれ。小学2年生から体操競技を始めた。日本体育大に進学し2001年の全日本学生選手権男子個人総合で3位となり、日本代表入りを果たした。卒業後は名門徳洲会体操クラブに所属するも、けがを期に06年からエアリアルへと転向した。12年のW杯で日本人初の3位表彰台。18年には平昌冬季五輪出場を果たした。現在も選手兼コーチとして日本エアリアル界をけん引している。長野県在住。