道内の高校で約37年間、国語教師や教頭を務め、現在も苫小牧市文化交流センターで行う「とまこまい市民カレッジ」の講師として教壇に立ち、古文や漢文、近代文学を教える。「人生、死ぬまで学生」の理念を胸に、教育と真摯(しんし)に向き合う探究心は絶やさない。
幼少の頃から、絵本を暗唱できるまで読み込んで家族や親戚に披露するのが好きだったという。「当時の経験が、覚えた知識を人へ発信する仕事に興味を持つきっかけになったのでは」と語る。
1976年に北海道教育大学函館校に進学し、宮城県の実家から北海道へ。卒業後の80年に初めて赴任したのはオホーツク管内の旧紋別南高校。機械科、電気科、家政科から成り、生徒の進路は就職がメインだった。元気が良すぎるぐらいの生徒たちで、時には悪さをすることもある「やんちゃな学校」だった。
7年間の在籍中、生徒指導の芯にあったのは「信賞必罰」の教え。未熟な高校生ゆえに過ちはある。しかし未完成で矯正可能だからこそ、規則からはみ出すのがどういうことか理解させ、賞罰をはっきりさせる正直な指導を心掛けた。
87年に異動した函館中部高校は生徒のほとんどが大学を目指す進学校で、国語、数学、英語は花形教科だった。「先行研究を読みあさるなど授業研究をより一層徹底し、教材と首っ引きだった」と振り返る。生徒からは、国語は英語や数学と違って勉強法が分からないという声が多かった。試行錯誤する中で三塚さんがたどり着いたのは「国語とは言葉を『獲得』する作業である」という結論だ。
「獲得」とは、他人が使っている言葉を理解し、いずれは自分の中で使いこなせるようになること。相手の意見をくみ取って自分の思いを伝え、理解してもらうこと=コミュニケーションで日常生活は成り立つ。書き言葉を読んで、感じたことを書いて表す作業も同じことだ。生徒には「知らなかった未知の言葉と出合わせるので、苦しんで自分のものにしてもらいたい」と説いた。設問に対して2分間の「フリータイム」を設け、生徒同士を会話させて新たな発見や結論へと導いた。
同校には18年在籍。2005年以降は苫小牧西高校や札幌南高校など五つの学校で教頭を務め、苫小牧中央高校の時間講師を経て、17年に同センター館長に就任した。
苫小牧市長生大学の学長として、今も昔も学生に強調するのは「よく遊び、よく学べ」ということ。新たに知ることが喜びとなり、次の興味や関心につながる。学生は意識せずとも、お互いの学習する姿勢で刺激し合いながら学びを深めていく。教育する側は、どのような指導の結果、現在の姿があるのか、今後どう教えるべきか―を考えることの積み重ねだ。「学ぶ生徒たちから、教えることを学ぶ。教える側であっても、自分が学ぶための柔軟な姿勢は失いたくない」
(小玉凜)
三塚 弘(みつづか・ひろし) 1957年1月、宮城県の旧栗駒町(現栗原市)の農家で3人兄弟の長男として生まれた。80年から道内の高校で国語教師、教頭を務め、2017年4月から苫小牧市文化交流センター館長。趣味は写真とレコード鑑賞。同市春日町在住。