1979(昭和54)年夏、苫小牧市青葉町の自宅に届いた回覧板に少年野球チーム大成クラブの勧誘ビラが挟まっていた。小学2年生になった長男に野球をさせたいと考えていたころ。指導者募集の一文もあり、「お手伝いしてみるか」と掛橋仁一さん(73)は軽い気持ちでチームの会合に足を運んだ。その後間もなく、グラウンドで指揮を執るユニホーム姿の自分がいた。
当時は勤務先の国鉄で軟式野球チームを掛け持ちするなど競技経験はあったが、指導歴は皆無。監督就任は「何度も断ったけど最後は押し切られちゃってね」。少年野球との長い付き合いが始まった。
歌志内の炭鉱で働き、太平洋戦争中には軍医だった父が「医は仁術なり」の格言を基に仁一(ひろいち)と名付けた。掛橋さんは生粋のスポーツ少年で夏は野球に水泳、卓球、相撲、冬はスキーにも励んだ。中でも団体競技の野球には夢中で、気付けば社会人になっても続けていた。
そこへ飛び込んで来た監督の大役。当時の大成クラブは市内大会で初戦負けが多かったが、「就任した年の最上級生はとても一生懸命で、5年生以下は磨けば光る原石ばかりだった」。30代前半の若い指揮官は、キャッチボール一つから徹底的に鍛え直した。
花園ファイターズ、弥生ベアーズなど近隣チームによく練習試合にも通った。「コールド負けの連続。こってりやられました」と苦笑する。それでも、懸命に白球を追う子どもたちと習練を重ね、79年秋の新人大会で準優勝すると、翌年は市内大会で早くも頂点に立った。
そこから各種大会で必ず優勝争いに絡む市内屈指の強豪にまで成長した。全道大会にも幾度となく出場し、選手数は一時50人以上の大所帯にもなった。「1勝したら万歳だったチームがここまでなるとは」。無限の可能性を秘めた子どもたちに選手育成の楽しさを教えてもらった。
平成に入るとスポーツの多様化に伴って選手数は減少の一途をたどったが、30年以上にわたりチームを率いた。65歳で指導者の座を退くと、次は地域の少年野球活動を支える立場に就いた。現在は苫小牧スポーツ少年団野球専門部会の事業部長として、大会期間中は必ず試合会場に足を運び戦況を見守る。「かつての教え子が指導者になり、その子どもたちが少年野球に励む。自分の息子や孫の活躍を見ているようで幸せなんです」と笑顔を見せる。
今季は新型コロナウイルスの影響で全国大会や全道級大会が相次いで中止。市内の競技日程も大きく変更を余儀なくされたが、各種企業スポンサーの理解もあって7月から大会開催にこぎ着けている。「たくさんの助けがあって試合ができる。選手たちには感謝の気持ちを忘れずに頑張ってほしい」と期待する。
少年野球の競技者やチーム数の減少が著しい昨今。「野球は誰しもが必ずスターになれる瞬間がやってくるスポーツ。少しでも魅力を感じて、競技を始める選手が増えてくれたら」と願いを込めた。
(北畠授)
掛橋 仁一(かけはし・ひろいち) 1946(昭和21)年、現歌志内市生まれ。3人きょうだいの長男で歌志内高校を卒業後、国鉄に就職し苫小牧市勤務となった。79(昭和54)年から市内の少年野球チーム大成クラブ(現フェニックス)の監督に就任。65歳で退いた後は、苫小牧スポーツ少年団野球専門部会で副会長、事業部長など要職を歴任。苫小牧市木場町在住。