「焼き物は、俺が死んでもどこかで残る」と、自作の花瓶を見詰めながら力を込める。陶芸を習い始めたのは47歳。苫小牧市内で塗装工の会社を経営する傍ら趣味で始め、今では陶芸教室「楽遊窯」を自宅敷地内で運営する。「塗装は周期で塗り変えられてしまうから、大工のようにずっと形に残る物作りに憧れがあった」と振り返る。
白老町で、4人兄弟の次男として生を受けた。漢字一文字「央」で「つかさ」と名付けたのは母、貴恵子さんだ。上にもならないが、下でもない中央にいられるように―と願いを込めた。役所などで名前を呼ばれる際に、戸惑われることもあるというが、「気に入っている。この名前は、日本中できっと俺一人だ」といたずらっぽく笑う。
親の負担を考え高校進学はせず、白老町の中学校を卒業後、先生に紹介された苫小牧市内の塗装会社に就職した。まだ徒弟制度が残っており、起床は午前4時半。寮の廊下掃除や布団上げに始まり、先輩職人たちが朝食を食べる間も車に荷物を積み込み、その後すぐに仕事に向かった。「当時は座ってご飯を食べたことなんてない」というほどの忙しさに追われた。
教えてくれる人はいない。職人の道具の使い方や動作を見よう見まねで覚え、3、4年後には、職人たちからも一目置かれる存在になっていた。
その後、別の会社に転職したり、事故で右足首を粉砕骨折して営業職に転向したりした時期もあったが、周囲に背中を押され、1977(昭和52)年に自社「つかさ塗工」をしらかば町に設立。その後、現在の自宅があるときわ町に移転した。
その頃、夫婦共に焼き物が好きだったこともあり、長く続けられる趣味を―と市内で陶芸を習い始めた。最初に作ったのは初心者向きの「ぐい飲み」。今なら1分強で作れるが、当時は2時間かかり、形も不格好。それでも習いに行く日が待ち遠しくて仕方がなく、「これまで技術を一人で覚えてきた経験が生かされたと思う。好きだから覚えるのも早かった」と笑う。
98年に北海道工芸展へ初出品し、入賞。その後、応募した作品展全てで入賞、入選を果たした。2007年には苫小牧市民文化祭で最高賞の市長賞も受賞している。
本業では00年に北海道産業貢献賞(知事表彰)を受けたが、08年12月に廃業し、翌年から陶芸教室「楽遊窯」を始めた。周りを巻き込むことで自身の気力にもつながるといい、今では13人もの生徒が学んでいる。プロを目指す後継者の育成にも力を入れたい考えだ。
苫小牧市高齢者福祉センターでも教室を担当している。「1週間がたつのがあっという間。会社を引退した今でも毎日を充実させられ、人からもうらやましがられる」と屈託のない笑顔を見せる。「定年後にやることがあって、どれだけ日々が楽しいか。本当にやっていて良かった」と、かみしめるように語った。
(高野玲央奈)
吉田 央(よしだ・つかさ) 1946(昭和21)年3月、白老町生まれ。97~2001年に苫小牧塗装工業協同組合理事長を務めた。塗装会社を経営する傍ら陶芸を学び、現在は自宅敷地内に工房を開設、教室も開く。好天の毎週火、水曜には青空市で作品の展示販売会を行っている。苫小牧市ときわ町在住。