プロ野球の南海(現ソフトバンクホークス)で三冠王に輝いた名捕手で、監督としてもヤクルトを3度日本一に導いた野村克也さん。2月11日に84歳で死去し、人物に接した野球関係者から惜しむ声が上がった。かつて野村氏がゼネラルマネジャー(GM)、監督を務めた社会人野球のシダックス野球部に在籍していたWEEDしらおいの桐木孝司投手兼コーチ(48)=病院職員=は「残念で仕方ない。心からお疲れさまでしたと言いたい」と名将の死を悼み、教えを胸に現役続行を誓う。
桐木は北海道桜丘高校(現北海道栄高)卒業後、大昭和製紙北海道硬式野球部入り。後身のヴィガしらおい解散後の1997年10月にシダックス野球部に移籍した。5シーズンを過ごし、02年の秋に退団。東京のクラブチーム、全府中を経て、03年7月から故郷の白老町に戻ってWEEDしらおいに所属。現在も投手兼コーチを務めている。
シダックスでは先発投手の二枚看板の一翼を担った。チームが初優勝した99年の日本選手権では、2回戦の救援と3回戦以降の2試合で先発登板した。140キロを超えるストレートと鋭いスライダーを武器に好投し、貢献した。
野村氏は同部のGMを経て、監督就任した03年に都市対抗野球大会で準優勝に導いた。桐木は「1年目で決勝まで行けたのはすごいこと。采配あっての決勝進出だったと思う」とたたえた。
野村氏との出会いは、02年2月、シダックスがキャンプを行った静岡県の球場。「眉間のしわが深く、怖かった」との第一印象だ。試合後のミーティングでは選手に鋭い指摘を投げ掛ける場面もあった。
ある試合後に守備の場面を振り返り、外野手からの返球について「バックホームではなく、走者を3塁で刺せたのではないか」―。眼光鋭く当事者に詰問した場面を思い返す。データ重視の「ID野球」以前の野球に関する眼力に居合わせた一同がうなった。桐木は「厳しかった。思いも寄らない視点からアドバイスをくれる人だった」と話す。選ばれて企業チームに加わる社会人野球選手といえども、学び続けなければならない―。「基本練習の反復がいかに大切かを知ったきっかけになった。今でも現役で投げられているのはそのおかげです」
桐木はテレビのニュースで野村さんが84歳で人生を閉じたことを知った。06年のシダックス廃部後、11年からほぼ毎年東京などで野球部OB会が開かれた際に会った。野村さんは毎回出席。人づてに「復部と監督復帰を強く希望していた」と聞いた。
桐木が野村氏と最後に顔を合わせたのは、18年1月のOB会。2人で並んだ記念写真撮影を頼むと快諾してくれた。まだ野球を続けていると伝えると野村氏は「おおそうか、頑張れよ」―。最後に交わした会話となった。誰もが認める偉大な野球人の思いを胸に刻んだ桐木はこの春も、現役として迎えるシーズンに向けて鍛えている。