女子の寺子屋の様子幕末に日本を訪れた外国人たちは皆、日本の子どもが社会全体で愛され、伸び伸びと明るいことに驚いたという。
激しい叱責や体罰もないのに聞き分けが良く、利発で礼儀正しく、貧しい家の子どもも読み書きができる。遊び道具や出版物の充実ぶり、四季折々や節句ごとのイベントも子どもを中心に行われるものが多く、「子どもにとって天国のような国」と称賛された。
大人たちは遊ぶことを奨励し、集団の遊びの中から競争心、協調性、助け合い、思いやりの心などを学ばせた。学ぶの語源が「まねる」にあるように、大人の行動をまねさせ、社会性を身に付けさせたのだ。
数えで7歳になると、身分に関係なく男子も女子も学問所(上方では寺子屋)に通い、読み書きそろばんなどを習う。学問所の経営はほとんど寄付金などで賄われ、お金がなくても教育を受けることができた。
同時代のロンドンの識字率が20%程度、パリに至っては10%以下だったのに比べ、江戸の識字率はなんと80%前後。このことだけでも、日本の子どもがいかに大切にされていたかが知れる。
年齢に応じて、男子は将来商業に就くなら「商売往来」、大工になるなら「番匠往来」といった教科書を使って専門分野を学び、女子は三味線、琴、舞、長唄などの稽古に通った。
14歳ぐらいまでに卒業して働きに出た。男子なら商家の小僧や職人の弟子。女子なら武家や大店(おおだな)に奉公に上がり、礼儀作法などを学ぶ。芸事に秀でて身分の高いお屋敷に奉公できると、戻った時には引く手あまたとなるため、娘を良い家に嫁がせたい親は特に教育に熱心だった。
「子どもが将来、きちんと独り立ちできるように養育すること」が、親や周囲の大人たちの責任であり、目標であり、いつの時代も変わらぬ愛情であったのだ。
(車浮代・時代小説家)
(文学万代の宝 末の巻 一寸子花里、公文教育研究会提供)