ロシアの作家ワレンチン・ラスプーチンが1974年に発表した小説「生きよ、そして記憶せよ」(原卓也、安岡治子訳、講談社)は、脱走兵を主人公にした物語である。独ソ戦で3年以上も戦った挙げ句、負傷したにもかかわらず一日も休暇を与えられなかったアンドレイは、出来心から軍に戻らず、シベリアの故郷の村に帰ってしまう。軍隊からの脱走は重大な戦争犯罪なのに。
彼はアンガラ川のほとりに立つ自分の家の風呂小屋に身を隠した。それに気付いた妻のナスチョーナが、食べ物を届けたり風呂を沸かしたりしてかくまう。
銃殺刑に処せられることにおびえ、時に自暴自棄になるアンドレイと、夫の言いつけを守って夫の脱走についてだれにも明かさずにいるナスチョーナ。雄大で厳しいシベリアの自然を背景に、極限状態に陥った夫婦の絶望的な愛が描かれる。
やがてナスチョーナが身ごもる。自分の血が子供に受け継がれると無邪気に喜ぶ夫に対して、妻はあらゆる苦しみを一身に引き受けて破滅への道を突き進んでいく。
ラスプーチンは「農村派作家」と呼ばれる正統的リアリズムの作家だ。農村派とは、ロシアの伝統・自然・保守的な価値観を重んじ、エコロジーにも関心を寄せるソ連時代の作家たちのこと。忍耐強く従順なナスチョーナは、ラスプーチンにとって古き良きロシアの理想を体現した悲劇的女性像なのかもしれない。
アンドレイは反戦思想から脱走したわけではなかったが、自分の過酷な運命を考えたとき、その根本的な原因が戦争そのものにあるのではないかと思い至る―「みんな戦争のせいだ」と。
ささやかな私生活の幸福が、戦争の名の下に、公権力に押しつぶされていく理不尽。アンドレイの嘆きには、個人と国家の対立を初めて自覚した人間の反戦の声色がにじんでいる。
ソ連では、脱走兵や捕虜といったテーマは長らくタブーだった。おそらく「生きよ、そして記憶せよ」は脱走兵を真正面から扱ったソ連で初めての作品だろう。この作品は大変な人気を博し、ラスプーチンの代表作となった。
(沼野恭子・東京外国語大学名誉教授)ワレンチン・ラスプーチン
=2013年、モスクワ(AFP時事)