お隣さんの推し

  • 土曜の窓, 特集
  • 2023年6月10日

  「そうそう、さやかさん、いい温泉があるのよ」

   10年ほど前のこと。子ども同士も仲良くさせていただいていたお隣の奥さんとの立ち話。わたしが温泉好きで、という話からの流れである。

   「あのね、さやかさん、うちの家族みんな、そのお宿が大好きで」「そうなんですね」「お食事が、もうおいしくて」「いいですね」「お湯がいいの、無色透明で、しっとりして」「いいですねえ」「シマフクロウが来るの」「シマフクロウ、ですか? 鳥の。どこに?」「フロントに」「フロントに? シマフクロウが、来る?」マジックショーなのか! 「フロントの前が全面窓でね、そこに飛んでくる」なるほど! 「ちょっと行きましょうよ」「いいですね、どの辺りですか?」「中標津から30分くらいかな」「中標津?中標津って、北海道?」「そうそう」遠くないですか!

   明日にでも行きましょうよ、すぐそこですから、というテンションでお勧めしてくれた宿は、まさかの北海道。なかなかの長旅に思うが隣家は温泉宿といえば養老牛温泉さん一択であるようだ。牛乳がおいしい、BGMは鳥のさえずり、なんにもしないというぜいたく、ひとしきりお宿の素晴らしさを聞かせてもらい、「じゃあまた」と、立ち話を終了しお互い家に入った。

   といっても隣家との玄関は3メートルと離れていない。都心の戸建ては大体こんなものだ。ぎゅうぎゅうにひしめき合って立っている。もともとは大きめの一軒家だった所を更地にし、そこに4軒もの戸建てを建てたそうだ。その中の一軒がうち、一軒が養老牛温泉推しのご家族である。窓を開けて手を伸ばせば、お隣さんの家が触れるのだ。娘を叱れば丸聞こえ。叱る前に窓を閉めるのが日課。

   わたしは、その鉛筆のように細長い戸建てが好きだった。玄関を入るとすぐ正面の狭い階段を上がり、2階のリビングへ。いつものようにじゅうたんに寝転がり、早速養老牛温泉のホームページを開くと、わたしは、おお、と小さく声を上げた。

   そこにある景色は東京には絶対にないものだった。緑が広がっている。家は一軒も見えない。どこまでも真っすぐな一本道。渓流の透明な水。野鳥が飛び交い、川辺に野生動物が顔を出している。シマフクロウは力強い眼でこちらを見ていた。いつか必ず。わたしは「養老牛」という単語を頭の中にインプットした。5年後。わたしは、ひょんなことから養老牛に一人旅することになるのだが、それはまた別の話。

  (タレント)

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