「折霜、ここに来たら縁起がいいんだぞ」。折霜忠紀氏(61)が、母校北海道日大(現道栄)の監督に就任した1980年の春。練習試合で佐藤茂富氏率いる砂川北(現砂川)に出向いた際、初対面の同氏から唐突に掛けられた言葉だ。答えは数カ月後に出た。道日大は同年秋の全道大会を制し、センバツ甲子園出場を果たすことになる。
聞けば、駒大岩見沢、旭川実業など、砂川北グラウンドで練習試合を行ったチームがことごとく甲子園出場を果たしていた。「信用したわけではないけれど、今でも強く印象に残っている」佐藤氏との会話だ。
その後、春、夏、秋と各種公式戦開幕前には練習試合を組むほど親交を厚くしてきた。折霜氏は2002年に一度、高校野球の現場を離れた。2年後の夏、疎遠になっていた佐藤氏から1本の電話が入った。「来年からチーム(鵡川)を手伝ってくれないか」。戸惑わなかったと言えばうそになる。悩んだ末に、「最後は妻に背中を押されて」決意した。
05年春、鵡川のコーチに就任した。佐藤氏と二人三脚の日々の始まりだ。02、04年と春のセンバツ甲子園に出場し、一躍道内屈指の強豪校となったチームは80人以上の大所帯になった。それでも「一人一人の様子をしっかり見ている。落ち込んでいたら監督室に呼んで、よく話し込んでいた」。佐藤氏のこまやかな指導力に目を見張った。
玄関の靴整頓、浴室、トイレの使い方など寮内はもちろん、「自分たちが勝った一方で、負けて悲しむ人もいる。その人の気持ちを思え」とグラウンド上での振る舞い方も一切妥協しない。当然、佐藤氏自身が率先垂範する。ある日、2人で温泉に出向くと、入浴客が多く利用する洗面台を使用後、丁寧に拭く同氏の姿があった。「すごいですね」と思わず折霜氏がつぶやくと、「こんなの当たり前だよ」。名将たるゆえんを垣間見た。
佐藤氏が14年に勇退するまで10年、同じ時間を過ごしてきた。「毎日が新しい発見ばかり。もし佐藤先生と出会っていなかったら、人生はがらっと変わっていた」。折霜氏は恩師の旅立ちを悼んだ。
—折霜忠紀
1958年、静内(現新ひだか)町生まれ。北海道日大高卒業後、白老の社会人チーム大昭和製紙北海道を経て、80年に母校の監督となった。2005年から鵡川高のコーチ、監督を歴任。18年からは札幌日大高の部長として活躍している。