闘将・佐藤茂富氏を悼む(1)小池啓之氏(元鵡川高野球部部長)―たぎる情熱、鵡川の名全国に

  • スポーツ, 野球
  • 2019年10月29日
佐藤氏と共に鵡川の礎を築いた小池氏
佐藤氏と共に鵡川の礎を築いた小池氏
2002年、センバツ大会出場決定で会見する佐藤茂富氏。写真奥が小池氏
2002年、センバツ大会出場決定で会見する佐藤茂富氏。写真奥が小池氏

  1998年から4年間、鵡川高野球部で部長を務めた小池啓之氏(67)の自家用車は、赴任からわずか2年で7万キロ以上を走破した。助手席にはもちろん、当時監督の佐藤茂富氏。「日本海側から太平洋側まで、いい選手がいればどこにだって行ったよ」。全道各地を駆け回った日々が懐かしい。

   現・旭川龍谷、砂川北でそれぞれ名を上げた最強コンビではあったが、最初は「ほとんど相手にされなかった。鵡川ってどこにあるんですかとよく言われた」。創部以来、全道大会への出場実績は一度もない。知られていないのは当然のことだった。

   それでも車内は、いつも甲子園を見据えた話で終始した。情熱をたぎらせた野球談義に花を咲かせる、掛け替えのない時間だった。

   地道な選手発掘が実り、2000年に新冠町の鬼海将一投手と、のちに日本ハムファイターズ(現北海道日本ハム)にドラフト指名された大砲、札幌の池田剛基が入部。投打の要を得たチームは、めきめきと力を付けた。

   名門私学に負けないほどの練習量はもちろん、佐藤氏は徹底した体重増加にも力を入れた。丼3杯の白米摂取は当たり前。夜のミーティングでは菓子パンとスポーツドリンクを与えた。「夜に食べさせたら悪いですよ」と小池さんはたしなめたが、「脂肪もパワーだ」と指揮官はにやりと返した。選手たちの打力が日々凄みを増していったのには驚いたという。

   00年、01年と2年連続で秋季全道大会ベスト8入り。02年に道内初の21世紀枠でセンバツ甲子園出場を決めた。鍛えた猛打で聖地で1勝を挙げるなど、鵡川の名は一躍全国にとどろいた。「奇跡の4年間。もう1回やれと言われても、できないよ」と小池氏ははにかむ。

   同年に旭川南へ転勤後も、佐藤氏とは変わらず親交を深めた。7月16日の同氏誕生日には互いに夫人を交えて食事をするのが恒例。今年も再会し、握手すると「握力がすごくて痛かった」と壮健さを肌で感じただけに、突然の訃報はいまだに信じられない。

   「とにかく魅力のある人だった。出会っていなければ今の自分はない」。尽きない感謝があふれる。

        ◇

   栗山、砂川北、鵡川の各高校で硬式野球部の指揮を執り、春夏計6回の甲子園出場を果たした名将佐藤茂富氏が8月、腸管感染症のため79歳でこの世を去った。親交の厚かった関係者4人に、在りし日を語ってもらった。

 ―佐藤茂富

  1940年三笠市生まれ。北海道学芸大(現道教育大)札幌校を卒業後、栗山高、砂川北高を経て97年に鵡川高監督。2012年7月に総監督就任。14年3月、退任した。砂川北、鵡川で春、夏計6回甲子園出場をかなえた名将は、8月19日に79歳で死去した。

 ―小池啓之

  1951年、東京都生まれ。市立尼崎高(兵庫県)、駒沢大学を経て77年から現・旭川龍谷高コーチ、監督などを歴任。2度、夏の甲子園に導いた。98年に鵡川高赴任。佐藤茂富監督と共に鵡川の礎を築いた。2002年、選抜大会を見届け旭川南高へ赴任。17年夏に勇退した。

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