長い男子の歴史に次いで日本の女子アイスホッケーが国際競技に打って出たのは1990年から出場計8カ国で新編された世界選手権が最初だった。その後、98年の長野五輪開催が決まり、4年に1度の大舞台にチャレンジする歴史が連綿と続いてきた。
開催国枠で挑んだ同五輪で日本は奮戦したものの対戦したカナダ、フィンランド、中国、米国、スウェーデンに大きく水を開けられて苦杯を喫した。その後、2000年代に五輪出場に挑み続け、ソルトレークシティー大会予選(01年、スイス)に続き、トリノ大会予選(04年、ロシア)、バンクーバー大会予選(08年、中国)のいずれもで惜敗を繰り返しつつ出場権を逸する苦難の期間が続いた。
転機は13年、続くソチ大会の最終予選グループC(スロバキア)に当時世界ランキング11位の第3シード国として臨み、スロバキア(7位)、ノルウェー(同10位)、デンマーク(同19位)と戦い、上位撃破を含んだ2勝と延長1敗で1位通過した。自力で16年ぶりの五輪出場を達成し、今日に続く大舞台連続進出の口火を切った。
往年の岩倉組GKでアイスホッケーの元日本連盟会長、さらに日本人初の国際連盟副会長を務めつつ女子競技興隆期を支えた冨田正一さん(89)=東京都在住=はミラノ・コルティナ五輪女子最終予選グループGを苫小牧で観戦した。最終日の9日の日中戦の間に「女子が4大会連続の五輪出場をかなえたことは日本のホッケー界にとって非常に大きなこと」と語った。
冨田さんは「氷都」苫小牧ゆかりの故河渕務さんが日本連盟副会長時代に女子競技国際化に力を尽くした功労を述懐。成し遂げられたスマイルジャパンの壮挙をたたえ、「苫小牧での最終予選開催は意義深かった。河渕さんが天から見ていて、きっと喜んでおられるでしょう」と語った。