人の思考を決定付ける高校と大学の7年間。この時期、私の心は「フランス」に支配されていた。15の春に親元を離れ、札幌で下宿生活を始めてすぐにアルチュール・ランボーにのめり込み、高校の授業そっちのけで仏語の辞書を片手に超硬質なダイヤともいうべき天才詩人のテキストにふけった。
おかげで大学は親の意に反して仏文学科を専攻することに。入学の初日には迷うことなく「フランス文化研究会」というサークルにも飛び込んだ。フランス人との最初の出会いはサークルに入会してきたパリ商科大学の交換留学生エリック、クレマンス、マリクレールの3人だった。クレマンスはお高くとまったパリジェンヌ。マリクレールのことをボルドー出の田舎娘といつもからかっていた。
エリックのおかげで、フランスを代表する名優ジャン・マレーにフランス大使館の一室でインタビューできたのを強烈に覚えている。「恐るべき子供たち」などで知られる仏芸術界の巨匠ジャン・コクトーと同性愛の関係にあったジャン・マレーがコクトー没後20年を機に彼の一人芝居に挑み、1985年に来日公演した時のことだ。マレーと面談していた部屋に女性が飛び込んできて、いきなりハグするのに思わず驚いた。岸恵子さんだった。
割のいい肉体労働のバイトで稼いだカネで格安チケットを買い、大学1年の夏、最初にパリに降り立った時の感動は今でも忘れられない。やがてフランスの旧植民地にも興味が湧き、船の甲板でジブラルタル海峡の潮風を浴びながらモロッコのタンジェに上陸したのがアフリカ・アラブ世界との初対面だった。アルジェリアやチュニジア、そしてシリアにまで放浪、学生の分際で幾度となく欧州、アフリカ、中東を渡り歩くバックパッカーがいつしか”本業”になっていた。
要するにあの頃、フランスと名が付けば何でもよかったのだ。映画はアラン・レネかジャン・リュック・ゴダール、哲学はデリダかフーコーか、歴史となればブローデルらのアナール学派。ワインはラフィット、ロケットならアリアン、サッカーはやっぱプラティニ(笑)。それはもう理由なき偏愛、あるいはポストモダン時代の熱病か。大学4年でサークルの委員長になった時、フランスに特化した大学新聞「L’Élément」を創刊、政治面で特集したのが、極右政党「国民戦線」(今の国民連合)のジャン=マリー・ル・ペンだ。当時、反ユダヤを公然と掲げて旋風を巻き起こしていた。
その娘のマリーヌ・ル・ペンが6月の欧州議会選挙で与党をダブルスコアの得票で追い詰め、焦ったマクロン大統領がこの時期に総選挙という賭けに出た。ついに極右政権の誕生か! とドキドキしたが、フランス国民の下した結論は政界を三つの勢力にきれいに分割する、超の付く現実論。「365種類ものチーズがある国をどうやって治めるというのかね?」とはド・ゴール元大統領の弁だが、今のマクロンも同じ思いでいるはず。
ちなみに私はド・ゴールの『大戦回顧録』で卒論を書いた。第2次大戦中に亡命政権「自由フランス」を率い、戦後も鉄のフランス・ファーストを貫いたド・ゴールがたまらなく好きだった。そして7年間の”フランス時代”をそっと封印し、社会へと巣立った。
共和党のトランプが凶弾に倒れるすんでのところだった。共和制には暴君は倒すというテロールの伝統が宿っている。気を付けろ!フランス!王家をギロチンにかけた共和制の国。
26日から100年ぶりのパリ五輪。その日、私の50代最後の一年がスタートする。
(會澤高圧コンクリート社長)