長嶋さんこそ「永久に不滅」

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  • 2025年6月3日
現役引退セレモニーでファンにあいさつする巨人の長嶋茂雄選手=1974年10月、東京・後楽園球場

 2004年3月に脳梗塞で倒れるまで、長嶋茂雄さんはキャンプ地を走り回っていた。同年8月に控えたアテネ五輪監督として、代表候補選手を激励していた。

 視察だけのつもりが、こらえ切れなくなってバットを握った。「こう、バーっと。そうそう。ビシっとね」。身ぶり手ぶりを交え、いつもながらの擬態語だけの熱血指導。選手をうまくなったような気にさせてしまう。そんな人だった。

 昭和30年代から高まったプロ野球人気は、この人に支えられてきた。1958年、8本塁打の東京六大学新記録(当時)を引っ提げて巨人に入団。デビュー戦ではのちに400勝投手となった国鉄のエース、金田正一に4連続三振を喫したが、萎縮せずにバットを振る姿勢が、自らをスーパースターの座に押し上げていった。

 翌年の天覧試合では阪神の村山実から劇的なサヨナラ本塁打を放った。巨人のV9を王貞治と共に支え、最優秀選手5回、首位打者6回などの栄光を手にした。

 王は本塁打や打点など数々の通算1位記録を持つ。長嶋さんには、1位がほとんどない。「記録より記憶に残る選手」とは、長嶋さんのためにある言葉だ。王を超える選手はもしかすると出るかもしれないが、長嶋を超える選手は出ない、と言われるほど圧倒的なオーラを発散した。

 「わが巨人軍は永久に不滅です」。74年、あの名せりふと共に現役引退。川上哲治監督の後を継いで挑んだ75年は「助っ人」外国人を使わない巨人の不文律を破り、デーブ・ジョンソン(後に米大リーグ・メッツなどで監督歴任)も招いたが、球団史上初の最下位。何が違ったのか。一番の違いは、選手としての「長嶋」がいなかったことだった。

 そのままでは終わらなかった。6年間の第1期監督在任中にリーグ優勝2回。日本一になれずその座を降りるが、12年のブランクを経て再登板。背番号は「90」から「33」、そして栄光の「3」へ。2002年に指揮を原辰徳にゆだねるまで2度日本一になった。

 監督時代、好機にベンチを飛び出して「アンパイア、代打」とコールした時、バントの構えをしていたことがある。「勘ピューター」は時に、観客や周囲をあっと驚かせる誤作動をすることもあった。

 「いわゆる一つの…」「メークドラマ」「うーん。そうですねえ」。数々の独特な言い回しは、物まねの定番にもなった。究極まで集中し、期待に応えようとすればするほど、信じられない結果を出す「スーパースター」。選手として、監督として、文化人として、日本でこの言葉が最も似合う人だった。

 おしゃれで、年齢を感じさせない身のこなしと話しぶり。そして最大の魅力、満面の笑みがもう見られない。寂しい、悲しい、悔しい、切ない。どんな言葉を使っても、今の気持ちを表現しようがない人々がどれほど多いことか。長嶋さんがもういないことを、信じたくない人々が…。

 その姿は、「永久に不滅」の記憶として、私たちの心に残るだろう。

(1975~76年、80~83年ほか巨人担当・時事通信社OB 安田清光)

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