長嶋茂雄は1936年2月20日、千葉県臼井町(現佐倉市)に生まれた。2男2女の末っ子。終戦後、流行し始めた野球に夢中になり、竹のバットや、母が苦労して作ってくれた手製のボール、父が買ってくれた布製のグラブで、暗くなるまで駆けずり回った。
勝負強さは、早くも発揮される。臼井二町組合立中学1年で正遊撃手。3年生の時に郡の中学校対抗野球大会決勝で、逆転サヨナラのランニング本塁打を放った。
この頃から「プロ野球選手になりたい」と思うようになり、ラジオの実況中継のまねをしながら素振りをしたという。気分はもうスター選手。知らず知らずのうちに、大舞台に立った時のイメージトレーニングを積んでいた。
佐倉一高3年の時、守備の凡ミスが多いために遊撃から三塁へ。強い打球が飛んでくる三塁手が血気盛んな長嶋の性格に合い、打撃にも好影響を与えた。夏の甲子園を目指す南関東大会で、大宮球場のバックスクリーンへ130メートルの特大本塁打を放つ。プロからも注目されだした。地元の人々は今も、この本塁打を「長嶋伝説」の始まりとして語り継いでいる。
54年、立大へ入学。その厳しさから「鬼」と呼ばれた砂押邦信監督に息子を託そうと思った父の強い意向だった。巨人からも誘われていたが、長嶋はやがてその判断が正しかったことを知る。
伝説となった月夜のノック。正しくボールを追い、しっかり捕球する基本を身に付けさせるため、暗いグラウンドでノックの打球を素手で捕らせた。上級生が監督排斥運動を起こしたほどの猛練習だった。「足腰が痛くてしゃがめないから、立って用を足したもんです。ええ、大きい方ですけどね」と、後に語った長嶋。
砂押監督からは、米大リーグの話もよく聞いた。雑誌の写真ぐらいしか情報がない時代。ジョー・ディマジオらを引き合いに出し、技術理論だけでなくプロフェッショナルとは何かも説いた。「長嶋茂雄」の土台は、こうして培われた。(敬称略)