長嶋茂雄に野球人として心残りがあるとすれば、満たされずに終わったオリンピックの夢ではないか。
「五輪の聖地アテネで日の丸を掲げたい」。アマ、プロ両球界からラブコールを受けて日本代表監督に就任したのは2002年12月。03年11月のアジア選手権(札幌)では、自ら編成した「ドリームチーム」で04年五輪の出場権を獲得した。「燃える男」はアテネに向けて燃えていた。
その4カ月後、すべてが一変する。68歳になり、老眼鏡が手放せなくなっても、精力的にキャンプ地を回っていたミスターが、自宅で脳梗塞に倒れた。04年3月4日だった。
アテネは現場指揮を断念し、「監督」として名前が登録されただけ。ベンチに飾る日の丸の旗に油性フェルトペンで「3」と書き込んだ。チームへの熱い思い。病と闘う苦しみ。震える筆跡に、その二つが同居していた。
初めて全員プロで挑んだアテネは、銅メダル。08年北京五輪が、リハビリに励む長嶋の励みになっていた。06年春には、王貞治率いる日本が、ワールド・ベースボール・クラシックの初代世界一に輝いてもいた。
しかし、北京を目指す日本代表の監督を要請されたのは星野仙一。長嶋はまたも外から見守るだけとなり、残念がったといわれる。
全日本野球会議の日本代表強化本部長在任中は、大学や社会人球界の首脳と太いパイプも築いていた。「野球文化を構築するため、プロ・アマ一体の組織づくりが必要だ」。プロとアマの懸け橋となり、野球をさらに一段高い文化へと育てていく夢も語っていた。
懸命のリハビリを経て歩けるまでに回復はしたが、右半身にまひが残り、公の場では右手をポケットに入れていた。それでもファンの歓声を求める熱い思いは消えなかった。(敬称略、終わり)