戦前、教育勅語と御真影(天皇、皇后の写真)を保管するために全国の小学校に設置された「奉安殿」。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で姿を消したものの、白老町の旧竹浦小学校に施設の跡が今も残る。軍国主義の時代を伝える遺跡として活用を―。戦時下に同校で学んだ人からそうした声も上がる。太平洋戦争の発端となった旧日本軍による真珠湾攻撃から、あす8日で80年。
奉安殿は、国民の戦争協力体制を築くため、政府が1937年に始めた国民精神総動員運動に連動する形で設置を進めた。日本帝国の教育理念を示した教育勅語と御真影を鉄筋コンクリート造りの頑丈な建物の中に収め、忠君愛国教育の象徴とした。御真影は神格化され、取り扱いには細心の注意が払われた。
戦後の撤去で現存する奉安殿は少ないが、旧竹浦小の校地には今も跡がくっきりと残っている。長さ4メートル、幅35センチの細長いコンクリート構造物が地面に正方形状に組まれており、建物を支える基礎とみられる。関係者によると、重厚な建物は校舎正面の前庭にあったという。
太平洋戦争が始まった41年、竹浦小(当時は竹浦国民学校)に入学した加藤正恭さん(87)=町竹浦=は、学校にあった奉安殿を今も記憶している。「高さは数メートルある屋根付きの立派な建物で、ドアも付いていた」と言う。登下校時には建物に向かって最敬礼するよう求められ、「子どもたちにとっても近寄りがたい存在だった」と回想する。
御真影は、四大節など特別な祝賀行事の際、校舎内に移され、行事の会場とした教室の祭壇に飾られた。「校長が白い手袋を着けて御真影を運んでいた姿を思い出す。香水だったのか、写真から何かいい香りがしていた」と言う。
学校では、高学年の児童を中心とした軍事教練など軍国主義教育が行われた。地域住民が徴兵された際、児童らは万歳の声を上げながら駅で見送った。勤労奉仕にも駆り出され、「当時の学校は戦争の担い手教育の場だった。自分もいつか志願して国のために命をささげる覚悟でいた。それを当たり前とした時代だった」と振り返る。
戦前、戦中の教育の象徴的存在だった奉安殿。現存施設を文化財として残す動きもある中で、加藤さんは「戦争時代に何があったのか。それを今の子どもたちに知ってもらうためにも、旧竹浦小にある奉安殿跡を生かすべきではないか」と話す。