学生時代から敬愛する作家やジャーナリストが、何人かいる。沢木耕太郎さんも、その一人。バックパッカーのバイブルのような「深夜特急」に魅せられて、プロボクサーのカシアス内藤さんの復活と挫折を描いた「一瞬の夏」に引き込まれた。特に「敗れざる者たち」を読んで、物書きの端くれになれないだろうかと考えた。
そんな沢木さんが、週刊文春に特別寄稿した「悲しき五輪」を読んだ。東京五輪への思いがつづられる。これまで、どの都市で開催されようとオリンピックに限っては、競技場へ行き、取材をして書きたいという心が躍るようなものがあった。だが、今回はコロナ禍で1年延期される以前から、仕事の依頼を全て断っていたそうだ。
自国開催、自分が生まれ育った都市で開催される特別な大会であるにもかかわらず、書きたいという情熱が湧いてこなかったという。なぜか。それはこのオリンピックに、そもそも開催の「大義」がないからではないかと、沢木さんは感じている。
世界中で依然としてコロナとの厳しい闘いが続く中、開催を強行すれば、内外からの厳しい批判にさらされ、中止すれば準備に費やされた莫大(ばくだい)な金と労力が無になる。沢木さんは「進むも地獄、退くも地獄の隘路(あいろ)で立ち往生している」と表現する。2度目の東京五輪開幕まで1カ月余り。国内外からの支持も希薄で、どちらを選んでも「悲しき五輪」のイメージは消えない。(広)