一章 亀裂
「あたしはそんなこと言ってませーん!」
杏璃が片手を突き上げて声を張ると、父が「黙って聞け」と睨みつける。杏璃が「こっわ」と手を下ろすと、父はおれに目を向けた。
「お前たちに生活費を出せとも、これからは茉莉の代わりに俺の面倒をみろとも言ってないんだから、大人しく、ハイそうですかって言ってりゃいいんだ。それとも何か? お前たちは俺たち夫婦の老後をきっちり見るつもりだったのか? それで、口出しする権利があると思ってんのか? それは、できないだろ。問題起こした泥船会社を解雇される奴と、小せえ運動教室で先生ごっこしてるような奴が、どうやって年寄りふたり抱えて生きてくってんだ。舐めんな。俺たちは自分の人生を最後まで自分の責任で生きる覚悟があるんだよ」
父の怒りのスイッチが、入った。
このスイッチが入ると、父の口が止まらなくなる。言い返したりしようものなら、ヒートアップだ。くそ、さっきまで大人しかったもんだから油断していた。ちらりと杏璃を見ると、おれに顰め面を向けていた。
しかし、黙っているわけにもいかない。
「……いや、その、介護とか、そういうのはまだ、大丈夫だろ。オヤジはまだ七十一歳で、元気で」
「一ケ月前、同級生の訃報が届いた。胃がんで、あっという間だったそうだが」
ぴしりと返されて、言葉が続かない。
「そいつだけじゃない。もっと早くに亡くなった友もいるし、病院で年越しをした知り合いもいる。俺はもう老後と言われる時期に入っている。お前は、俺が病で倒れて余命宣告されても、『まだ早い』と慌てるんじゃないのか。長男だからしっかりしろとは言わないが、家族を支える男として、その覚悟の甘さはどうにかした方がいいな。だいたい、お前みたいな考えが浅い男は、いざ親を介護する段になったら嫁に押し付けるんだ。共働きの美都さんに俺たちを押し付けて、それでいい顔しようって考えるんだよ」
「ちょっとちょっと、話が飛躍しすぎ。あと、子どもの前だからさすがに険悪なのはやめよ?」
杏璃がおれと父の間に入った。どうどうと言いながら両手を上下させて、部屋の隅の方に目を向ける。
体育座りをしたままの音兎が、ぽかんと口を開けておれたちを見ていた。