一章 亀裂
血の気が引いている音兎の目が彷徨(さまよ)っている。
「美都」
声をかけて、顎でドアを示す。美都は慌てて音兎に駆け寄り、「向こうの部屋に行ってよう」と部屋を出て行った。それを見送った杏璃が父に顔を向ける。
「運動教室で先生ごっこってセリフ、あたし一生忘れないから。でもまあ、それはいいわ。そんな下らないことで喧嘩したくもないし。それで? お父さんたちの間ではもう話が決まっていて、これからお母さんは出て行くってことは決定事項なのね? これはただの報告ってことね?」
怒りを駄々洩(も)れにした杏璃の問いに、父が「そういうことだ」と頷き、母も「もう、私たちの間では話がついてるのよ」と続いた。
「オーケー。いろいろ訊きたいことはあるけど、とりあえず理解した。それで、お母さんは好きなひとだかのところに行くわけでしょ? 相手は、お母さんに家庭があることは知ってるの? それで、来いって言ってんの?」
「言ってはないし、相手は私が行くことを知らない。〝あすなろ荘〟に入居していて、だから私もそこに住むつもりで」
「あ。茂子(しげこ)さんのとこね」
杏璃がわずかに表情を緩めた。明日葉(あしたば)茂子さんは、母の古くからの親友だ。隣県であすなろ荘という共同住宅――いまどきの言葉で言うとシェアハウスを運営している。住人は茂子さんの知り合いや友人で、茂子さんは『独り身のひとたちが安心して生きていくための互助会みたいなものよ』と言っていた。彼女は、四十歳のときに十七歳年上の夫と死別している。
あすなろ荘には、何の用だったかは忘れたが一度だけ美都と一緒に行ったことがある。入母屋造りの大きな日本家屋で、間取りは6LDK。お化け屋敷と呼ばれていた旧家の屋敷を安く買ってリフォームしたとのことで、外観は些かおどろおどろしいが中は快適な空間となっていた。水回りは特に綺麗で、美都は広い浴室やアイランド型のキッチンを羨ましそうに眺めていた。
いま現在の入居者がどういうひとたちかは知らないが、あすなろ荘は茂子さんのお眼鏡にかなわないと入居できないはずだから、危ないことはないだろう。