一章 亀裂
「先が長くないのに、あすなろ荘にいるの? 病院じゃなくて?」
「いつかは、そうなるかもしれない。そうなる前にゆっくり生活を送りたいってことで入居したそうなの。だから私は、生活のお手伝いがしたいの」
「……そう。分かった」
少しだけ考えこんだのち、杏璃が頷いた。
「行き先があすなろ荘なら、納得した。ううん、納得、する」
「ちょっと……」
待て。他の男のところに行くって言う母の背中をそんなに簡単に押すんじゃない。そう言いかけたけれど、臨戦態勢を解かない父がおれを睨んでいることに気が付いて、口を閉じた。
「変な空気にしてしまってごめん。私はもう出るわね。キッチンの片づけは」
母がキッチンを振り返ると「あたしがしとくよ」と杏璃が言う。
「お兄ちゃんたちもいるし、大丈夫。あと、一点確認。これまで通りに連絡はしていいんだよね?」
「それは、もちろん。この家から離れるだけで、あなたたちとの関係は何も変わらないんだから、遠慮しないで」
茫然(ぼうぜん)としている間に、母は大きなスーツケースとボストンバッグを持ち、「じゃあ」と玄関に向かった。父はソファに座り込み、おれと杏璃は玄関まで追いかける。気配を察知した美都と音兎も出てきた。
「おばあちゃん、いなくなっちゃうの?」
音兎が怯(おび)えるように母に訊いた。母は「ごめんなさいね。でも、二度と会えないわけじゃないから」と孫息子の頭をそっと撫でた。美都に顔を向け「ごめんなさいね」と言う。美都は言葉が出てこないのか、ぷるぷると首を横に振った。
「落ち着いたら、それぞれにメールする。みんな、元気で。眞と杏璃は、ときどきでいいから、お父さんのこと気にかけてあげて」
「お父さんに関しては分からないけど、いまは了解って言っておいてあげる」
杏璃が肩を竦め、おれは「本気なのかよ」と声を絞り出す。どうしても、受け入れられない。こんなこと、許せるものではない。
「おれが大変な時期なの、分かってるくせに。心労までかけんのかよ」