一章 亀裂
信じられないものを見たように、美都が口元に手をあてた。
『そういうこと、言わないで。通用するとか、終わってるとか』
『いや実際終わってるだろ。オフクロはさ、おれが手を引いて理屈を教えてやらなきゃいけない年になったんだよ』
分かるだろ? と美都を見る。美都は、大袈裟(げさ)にため息を吐いた。
『酔っぱらいすぎだよ。それ抜きにしても、そういうの、わたし許せない』
おれの目の前にあった、飲みかけの缶ビールを美都が取り上げた。半分以上残っていたのに、キッチンシンクに流す。『何すんだよ!』と声を荒らげると、『本気でわたしを呆れさせるつもりなら、冷蔵庫から新しいの取って飲めば?』と冷ややかに言われた。
『これ以上みっともないこと口にするなら、わたし、出て行くからね』
本気の目をしていて、ゆらゆらしていた意識がぶるりと震えるように我に返った。『ごめん』と口にする前に、美都はおれに背中を向けて『わたし、もう寝ます』とだけ言った。
それから一週間過ぎたが、美都とは最低限の会話しかしていない。話しかけても、まともに返してくれない。
普段はのんびりしている音兎も、両親のぎこちなさを感じ取ったらしい。美都が風呂に入っているときに『ママを怒らすって、相当のことしたんだね』と憐(あわ)れむように言われた。思わず反論しかけたが、子どもを巻き込みたくないから呑み込んだ。
酒の勢いで、言いすぎた面はあったと自覚している。それは、反省する。しかし、仕方ないじゃないかと思う自分もいる。七十目前の母親から聞く話じゃない。これまでが良き母であった分、その衝撃も大きい。
しかもおれは、会社から解雇を言い渡された身なのだ。会社のために必死になって働いたのに、手のひらを返された。転職先があっても、癒えぬ傷がある。そんな状態の息子に、あんまりにも無神経な仕打ちじゃないか? 狼狽(うろた)えて、戸惑って、当然じゃないか。