一章 亀裂
実家近くのスーパーで惣菜(そうざい)とカップ麺を買い、実家に向かった。父は典型的な昭和のオヤジだから、家事一切を母に任せていた。キッチンに立つのはプライドが許さないと言わんばかりに頑(かたく)なに立ち入らず、それゆえカップ麺作りすら母任せだった。
その母がいなくなったのだ。家の中は酷いありさまになっているに違いない。母を止めなかったことを後悔して、しょぼくれているのではないか。そうなれば、あすなろ荘に行って様子を見て来てくれないかとおれに持ち掛けてくるかもしれない。母の様子を見て、帰って来るよう促してくれと頼んでくるかもしれない。もしオヤジがおれに頭を下げるのであれば、いや、そんなことをせずとも言外に匂わせてくれれば、おれは次の休日にあすなろ荘まで車を走らせるだろう。
重たいビニール袋を両手に抱えて実家を訪ねたおれは、目を疑った。
玄関は綺麗に掃き清められ、シューズボックスの上には水仙が一輪生けられている。リビングの方から美味しそうな香りと、じゅうじゅうと何かが焼ける音。まさか、あのオヤジが料理? ぎょっとした後、杏璃が来ているのかもしれないと思い至る。あいつ、案外いいところがあるじゃないか。『運動教室で先生ごっこをしている娘を、一切頼らないでちょうだいね』なんて捨て台詞(ぜりふ)を残して帰って行ったから、一切期待していなかったのに。
しかし、杏璃のど派手な靴は見当たらない。女性物は一足もなく、代わりに、父のものとは思えない、でかいエアジョーダンがあった。何で?
「オヤジ、入るぞ。あのなあ、不用心だから家の鍵くらいちゃんと」
言いながらリビングに入ったおれは、言葉を失った。いつもは母が当たり前にいたキッチンに、大男が立っていた。デニムのエプロンを身に着け、フライパンを揺らしている。そして父は、ソファに座って優雅に新聞を読んでいた。
「え。何。誰」
「何だ、眞。何の用だ」
新聞からちらりと顔を上げて、父が言う。リビングを見回すと、これまた綺麗に整頓されていた。おれの想像では、汚れた皿や洗濯物、菓子パンの空袋や酒瓶なんかがごろごろ転がっているはずだったのに。