一章 亀裂
若市が働いていたという〝雅楽〟は、昼のランチ用の冷凍鴨(かも)団子やいわしつみれを納品していた店だ。
「会社が借り上げてくれていたアパートも出ていかざるを得なくなって、それで路頭に迷ってたんです。困ってたところで、尚蔵さんと会って」
「家事を担(にな)ってくれるってんで、利害が一致したんだよ」
父が続ける。
「あのときお前たちに偉そうに言ったが、俺はこれまで家事なんかしたことがない。洗濯機の使い方も知らない。家事代行サービスを雇うしかないと思ってたから、佑月が来てくれて助かってる」
父が滑らかに『佑月』と呼んだことに、どきりとした。父は、こんなに簡単にひとを呼び捨てたりしない。過去、両親が仲人役を務めるほど可愛がっていた部下ですら苗字に『くん』付けだった。
「いや、だからって」
「家事代行サービスってのは、調べたらこれがまあ、高いんだな。不自由なく生活しようと思ったら、赤字になっちまう。年金と俺のシルバー人材センターでの収入じゃ、贅沢(ぜいたく)なんだよな」
父が、顎を撫でながら続ける。
「食費と光熱費は佑月と折半ってことにしたんだけど、いい節約になりそうだ。こういうのが、あれだろ。ミンミーンっていうやつだろ」
「蝉かよ。WINWIN(ウインウイン)だよ」
どこかのんびりした父から、若市の方に目を向けた。若市は大きな二重の目をぱちぱちさせて「あの、眞さん。よかったら夕飯、召し上がっていかれませんか」と言った。
「今夜のメインは豚の生姜焼きなんですけど、お好きですか。鶏団子と白菜のスープに、春菊のおひたしなんかもあります」
「え? あ、あー……」
「いい、いい。こいつにはちゃんとできた嫁さんがいて、飯作って待ってくれてんだから」
父が手をパタパタと振り「帰れよ」とおれに言った。
「どうせ、俺がひとりでてんやわんやしてるんだろうって、見物に来たんだろ? 馬鹿にしやがって。ほら、そのお恵み袋持って、帰れ」
指さされたのは、おれが手にしたままのレジ袋だ。