◇6 昭和30年初頭 運動会 予算たっぷり?の花形イベント 「子どもの成長楽しむ運動会を」 風景今昔 グラウンドは2000人の活躍の場 今は昼で終了お弁当もなし

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年6月24日
運動足袋に白パンツの子どもたち(昭和30年ごろ、苫小牧西小学校)
運動足袋に白パンツの子どもたち(昭和30年ごろ、苫小牧西小学校)
苫小牧西小学校の運動会応援風景(昭和30年代初頭)
苫小牧西小学校の運動会応援風景(昭和30年代初頭)
地域の運動会でリレーのバトンを持つ子どもたち(年代不詳)
地域の運動会でリレーのバトンを持つ子どもたち(年代不詳)
現在の西小学校のグラウンドと校舎
現在の西小学校のグラウンドと校舎

  前回掲載した東小学校の遠足の写真について、「これは私が小学1年生の時の遠足の行列。大きく写っているのは1年3組で、この列の中に私がいるはず」と読者から連絡を頂いた。「大野踏切」を渡り、坊主山に向かった記憶があるといい、「東小もやはり坊主山でしたか」とひとしきり話が弾んだ。今回は「運動会」を取り上げる。遠足、学芸会、そして運動会は、小学校の3大行事だった。ただ、近年ではそのどれもが縮小されて教科の授業が膨張している。それがいいのかどうなのか。ともあれ、この紙面では「花形」だったころの運動会を振り返る。

   ■運動会全盛の時代

   創刊当時「南北海」という題号が付けられていた苫小牧民報の昭和25年以降30年代初頭までのページをめくると、小、中学校の運動会の日程のお知らせが、細かに掲載されている。この頃、小、中学校の運動会は6月下旬から7月上旬に催されることが多かったようだ。なぜその時期に? と考えて思い当たるのが、イワシ漁の漁期。これが5~6月。戦後衰退したとはいえ、なお漁は行われており、特に漁業に携わる父母の多い西小では漁期の終わりを待って行ったのかもしれない。

   その西小では、昭和25年の運動会に6万円もの予算を組んだ(昭和25年5月14日付「南北海」)。同年の勤労者の平均賃金が月額9000円台(全国・勤労統計)であったことを考えると、現在なら200万円ほどになるから、当時の運動会への熱の入れようというのが分かる。

   実際、この時期から昭和30年代前半ごろまでは学校ばかりでなく、王子製紙(苫小牧製紙)をはじめとする企業や、町内会などの運動会も盛んに行われていたことが、当時の新聞記事から分かる。戦争、敗戦、物不足という苦難の時代からの解放感と立ち直ろうとするエネルギーの発散の、一つの現れが「運動会」であったのだろうか。

   ■成長を楽しむ行事

   その解放感とエネルギーの発散が、行き過ぎたこともあったようだ。

   苫小牧東小学校の加藤虎雄校長は「戦後のレクリエーション運動で組合、会社、青年団などの運動会が盛んなのは好ましいが、諧謔(かいぎゃく=ユーモア)が度を過ぎて馬鹿げた競技になったり、親しみが過ぎて非礼になったり、冒険の度が過ぎてけが人を出したり…賞品や装飾の度が過ぎたりしてはならない。戦後の世相に照らして、くれぐれも注意を要する」とくぎを刺す。そして小、中学校の運動会、競技会については心身を鍛えるなど多くの目的とともに「いずれにしても父母とともに教師が子どもの心身の健やかな成長を楽しむ行事として仕組みを考えるべき」(昭和25年5月29日付「南北海」)だと言う。現在の運動会の取り扱われ方に照らしてなかなか興味深い。

   ■2部制で運動会

   敗戦直後の苫小牧市街地の小学校は西小と東小だけであり、樺太などからの引揚家族や復員による人口増加、つまり子どもたちの増加に対応して若草小学校が開設(昭和27年)され、ベビーブームに応じて北光小学校が開校(同32年)したことは、これまでにも記した。その北光小学校で、2日がかりの運動会というのが昭和47年にあった。

   昭和40年代、苫小牧は港が開かれた勢いに乗って、多くの企業が進出し、人口が増え、新たな住宅地が郊外に造成された。まず、糸井地区、現在の日新町、しらかば町の住宅地がそれであった。日軽金社宅や市営住宅ができ、そこに入居した人の多くが若い層であったから、就学児童も多かった。その子どもたちが通ったのが、北光小学校だった。日新小(昭和48年開校)はまだない。

   北光小の児童数が1年間で500人ほども増え、1700人を超えたのが昭和47年だった。

   運動会は1日ではプログラムを消化し切れないので2日間に分けてすることにした。苫小牧では初めてのケース。1日目は4年生から6年生まで、2日目は1年生から3年生まで。応援の父母も大変だ。「二日がかりの運動会開催を知らされた父母もちょっぴり戸惑いがち。児童が2、3人もいるところでは二日がかりで応援に行かなくては…という声も聞かれ、どんな運動会になるのかと不安そう」(昭和47年6月3日付「苫小牧民報」)だったという。

    (一耕社・新沼友啓)

   大小の写真は共に昭和30年頃の苫小牧西小学校の運動会の一こま。子どもたちはみんな同じ格好。運動会には白っぽい服と運動足袋、そして紅白鉢巻きと決められていたそうだ。みんな前髪を真っすぐに整えている。これじゃあ、自分の家の子がどこにいるか分からないのではないか。全校児童が2000人超えの時代。運動会も大にぎわいだったそうだ。

   運動会前にはグラウンドの石拾いをみんなでやり、王子製紙が使わなくなった直径約130センチ、幅も130センチほどの巨大な石のローラーを引っ張って整地していたそうだ。どうやって引張っていたのだろう。

   運動会の日、実施の可否は朝に花火を打ち上げて知らせた。天気が悪くて開催が危ういときには、花火が鳴るのをみんなが待っていたという。

   この頃の運動会では、鉛筆やノートの賞品があったと聞いてびっくり。順位ごとに賞品が違う。1位の賞品をもらえたときは誇らしかった。選抜リレーや組体操。走るのが得意な子もそうでない子もみんなが活躍できるようなプログラムだ。

   お昼には家の人と一緒にお弁当を校庭で食べるか、家が近所の子は一度帰って食べる。お弁当でも家に帰る子でもごちそうが待っていたという。家の人が来られない子は遠足の時と同様に先生と一緒に食べた。

   今の時代、運動会は午前中で終了するからお弁当は無い。賞品なんて無いし、順位も付けたがらない。それぐらい面白さがあってもいいのに…。

   子どもたちが一生懸命に旗を振って応援している写真では、グラウンドの上に万国旗が飾られている。これを見るだけで運動会が盛大に行われていた雰囲気が伝わる。

   当時の地図を持って現地を訪ねた。学校のある場所は変わらない。周囲は、自動車学校も弥生中学校も測候所も無くなってすっかり変わったが、学校は校舎が縮小したくらいでグラウンドの位置もほぼ一緒だ。今はあまり見かけなくなった学校プールがあった。今も使われているといい、これには感激。

   写真を撮ることに夢中になっていると、カラスに襲われそうになった。グラウンドを囲む木に巣があったのだ。昔は、校舎に多くのハトが住み着いて、学校の周囲を飛び交っていたとか。(一耕社・斉藤彩加)

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