「子どもの頃の楽しい思い出なんて、一つもありません。私の青春は何だったのか」
核廃絶や恒久平和を願う苫小牧市非核平和都市条例の制定から20年の今年、市民らが企画し、王子町の私設文学館で10日に催した「子どもたちに戦争体験を語り継ぐ会」。谷口麗子さん(88)=市音羽町=は戦時の記憶をたぐり寄せ、震える声でそう話した。
東京で生まれ育ち、10歳の時、東京大空襲を経験。太平洋戦争末期に起きた地獄を目にした。戦後生まれの世代には到底、その惨劇を理解してもらえないだろうと、話すことを避けてきた。しかし、ロシアのウクライナ侵攻で世界の平和が一気に脅かされ、核兵器の脅威も再び高まっている今こそ、戦争の愚かさを伝えなければならない―と講話を引き受けた。
「どんなことがあっても戦争だけは、絶対してはいけないんだよ」。前に座る少女の瞳をじっと見詰め、言い聞かせるかのようにその言葉を繰り返した。
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東京下町の本所区(現・墨田区)で戦時下を過ごした。1944年11月以降、米軍のB29爆撃機による空襲が続き、学校の友達は一人、また一人と田舎へ疎開した。爆撃から身を守るため、地域の郡長を務めていた父を除き、夜は母や4人のきょうだいと一緒に隅田川近くの寺の半地下で寝泊りするようになった。
そして、無差別攻撃で東京を焼け野原にし、8万人以上の命を奪ったあの大空襲に見舞われた。終戦5カ月前の45年3月10日未明、米軍は住宅密集地の下町を中心に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせた。谷口さん家族が身を寄せていた寺にもすぐに火の手が迫った。
「ここも危ないぞ!」。誰かの叫び声で寺から飛び出した際、水を入れた一升瓶を担いだ父が遠くから駆けて来るのが見えた。「これをかぶれ!」。水で濡らした毛布で体を覆い、町の中を逃げ惑った。迫り来る炎とすさまじい熱気。見るものすべてが真っ赤だった。人々が背負った荷物にも火の粉が降り注ぎ、めらめらと燃え出した。父は一升瓶の水で消して回った。
どこをどう逃げたのか、意識がもうろうとする中でたどり着いたのは隅田公園。手を伸ばすと届きそうなくらいの低空でB29が頭上を行き交った。「ここも攻撃されたら、もうおしまい」。覚悟を決めたが、幸い焼夷弾を落とされなかった。
下町一帯は一晩で焦土と化し、至る所に黒焦げの遺体があった。「かわいそうとか、怖いとか、そう思うこともできなくなってね。ただ手を合わせて歩くしかなかった」。息絶えた母親の背中で泣く赤ちゃんも見た。どうすることもできずに通り過ぎたが、今でも気掛かりという。
長野県の親戚宅で終戦を迎え、その後、一家で北海道に移り住んだ。つらい記憶にふたをするようにして生きてきたが、「あんな思いをするのは、自分たちの代で最後にしなければ」。ロシアの軍事侵攻や台湾情勢の緊迫化で、平和が揺らぐ事態を見て見ぬふりはできなくなった。
語り継ぐ会の会場に集まった子どもたちは体験談に真剣に耳を傾けてくれ、少しだけほっとした。「人の命は何より大事。これからも戦争は駄目と言い続けたい」。それが自分の役目と思っている。