「広島原爆の日」の今月6日。苫小牧市文化交流センターで開かれている「ヒロシマ原爆資料展」には多くの市民の姿があった。
資料展は苫小牧の「非核平和都市条例」施行20年を記念し、市と被爆地・広島市が共催。広島平和記念資料館から借り受けた15点の被爆資料が展示された。
猛烈な熱風で溶け、ひと塊になった食器類。夫と幼い3人の子を残し命を落とした女性の軍手。被爆で白血病を発症した少女が「生きたい」と願って作った折り鶴―。一瞬にして日常を破壊した原爆の恐ろしさをリアルに伝える資料の数々に来場者の誰もが息をのんだ。
真剣なまなざしで一人、展示物を見て歩く少女がいた。錦岡小学校6年の佐々木璃音さん(11)。夏休みの自由研究に生かそうと訪れた。自分と同じ年頃の子どもの遺品には、特に長く足を止めて見入った。「想像していたよりずっと原爆は怖かった」。広島が地獄と化した77年前の事実を懸命に受け止めようとしていた。
鴻野憲征さん(83)=市樽前=も原爆資料を目にしながら、平和への思いを強くしていた。6歳の時、伊達町(現・伊達市)で終戦を迎えた。空襲警報が発令されるたびに防空壕へ逃げ込み、おびえた戦時下を振り返り「今の子どもたちにあんな思いはさせたくない」。市内の小中学生が作った平和の折り鶴を見詰め、そう言った。
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「毎年8月6日に原爆症で死んだ人のことが報道される。若い頃、自分ももうすぐ死ぬんじゃないかと怖くて、この日が来るのが嫌だったな」。片岡勝彦さん(80)=市大成町=は4歳になる直前、爆心地から2キロ圏内にあった広島市舟入川口町の自宅で被爆した。
あの日、朝から快晴だった。遊びに出掛ける前にシャツを着替えようと奥の間に向かった瞬間、すさまじい閃光(せんこう)に目がくらんだ。幸い部屋の隣にあった風呂場のコンクリート壁に守られ、妊娠中の母親にもけがはなかった。だが、父親の命は奪われた。
建物の解体作業中に被爆。全身に大やけどを負いながら必死に家に戻ってきた。治療をしようとする母に「俺は助からないから、他の人を助けてやってくれ」と言い残し、30歳の若さで他界した。街は無残な姿に変わり果て、熱線に焼かれた遺体があちこちにあった。「熱かったのだろう、防火水槽に頭を突っ込みながら死んでいる人も見た」。幼い時に目にした惨状を今も覚えている。
悲劇から77年たって、大国ロシアのプーチン大統領が戦争での核使用をにおわす言葉を口にした。また、どこかで使われてしまうのではないか、と不安を抱く。被爆者として、非核平和都市条例を持つまちの市民としても「その言動を認めることなどできない」とし、「核をちらつかせる国に対して、世界唯一の被爆国日本は原爆の実相を訴え続けるべきだ」と強調した。
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ロシアのウクライナ侵攻で核の脅威が高まる中、制定から20年を迎えた苫小牧市非核平和都市条例の存在意義も強まる。制定に関わった市民、被爆者など、核廃絶や平和を願う人たちの声に耳を傾けた。