鵡川高校野球部前監督の鬼海将一さん(36)がこのほど、母校で7年にわたる競技指導を終えた。4月から三重県内の特別支援学校に講師として着任。高校時代の恩師佐藤茂富氏(享年79)の死をきっかけに抱いた「教員になりたい」夢をかなえるため、新たなスタートを切った。「鵡川は自分にとってのふるさと。たくさんの方々に支えられた」と尽きない感謝を口にした。
砂川北、鵡川両高野球部を春夏合わせ6度甲子園に導いた名将佐藤氏が2019年8月に死去。同11月のお別れの会(札幌)で弔辞を依頼され、高校時代に恩師と交わした人生ノートや、共に歩んだ日々を振り返り「自分がこの立場になろうと思ったのは、教壇に立ちながら野球指導をする茂富先生に憧れたからだ」と再認識した。
歴代の教え子や道内外の野球関係者ら1000人以上が詰め掛けた会で教員の道を目指すことを宣言。昨年に特別支援学校教諭二種免許を取得し、妻のふるさと三重で心機一転を図ることにした。
新冠町出身で鵡川高時代はエース右腕として活躍。02年春には21世紀枠でセンバツ甲子園の舞台にも立った。筑波大に進み中学、高校の保健体育の教員免許を取得。卒業後は道内外の高校で野球部コーチを務め、14年から鵡川町職員となって母校のコーチ、17年夏から監督に就任した。
決して平たんな道ではなかった。監督就任直後に部内の不祥事が発覚し、同年秋の大会出場を辞退。18年9月には北海道胆振東部地震で被災した。昨年度は新型コロナウイルスによって夏の甲子園など各種公式戦が中止となった。
度重なる苦境の中で選手たちはたくましく成長してくれた。「チームという組織にいる責任と自覚を持ってほしい」との思いから、一定のルールを設けながら試合中は選手間でプレーを選択させる手法を取り入れた。「自分たちで決めたことの成功や失敗の方が成長につながる」。単なる競技指導ではなく、教育者としての視点がそこにはあった。
18年の被災後に「僕たちにもできることはありませんか」と選手たちがボランティア活動を買って出たこと。コロナ禍で目標を失いながら、懸命に前を向いて20年夏の代替支部大会を勝ち上がり南大会まで進んだ底力。鵡川伝統の全力疾走は、言わずとも全員が自然に取り組んだ。「彼らが持つ人の心を動かすパワーは本当にすごかった」と鬼海さんは目を細める。
大好きな野球とはしばしお別れする。特別支援学校で日々生徒と向き合いながら、教員採用試験合格を目指していく。晴れて教員になった暁には「縁あれば野球指導もやってみたい」と言う。鵡川野球部には高校時代の部長だったもう一人の恩師、小池啓之氏(69)が監督に就いた。「指導者が代わってもやるべきことは同じ。心から応援されるチームになってほしい」とエールを送った。