■必勝への切り札
1934年完成の「戸巻ノート」に、別紙が挟まっている。グラフ用紙に記されたフォーメーション図解が3枚、ザラ紙に鉛筆書きのメモが2枚。このメモこそが、2年後にチームから4人の選手を五輪に出場させた戦術の内容だった。
メモの1枚に「戦法」が記されている。「王子には王子の独特の戦法があるべきである。頭脳を使ったプレー、変化のある一本調子でない試合(略)」。例に挙げているのが、個人プレーからコンビネーションプレーへ、ロングシュートから「全員攻撃」へという展開。この「全員攻撃」が後にイーグルの切り札となる。
■強みは脚の強さと情熱
実際には「全員」ではなく「五人攻撃」。自陣にはゴールキーパーしか残らない危険な賭けに思われた。
だが、イーグルの指導をしていた西田信一氏は「できる」と確信した。イーグルの強みは、脚力だった。子どもの頃から近くの沼や川でげたスケートを履いて滑ったことが、強い足腰をつくっていた。「子どもの頃は細長い沼を着物の裾を凍らせながら1里(約4キロ)も滑った」とスピードスケート育ての親の吉田正男氏(西小教諭)は50年ほど前の座談会で語っている。「王子ホッケー部の佐藤(三千)君なんかは練習のときにいつも赤ん坊をおんぶして来て草むらに寝かせておく。風邪引いたら困るぞと言ったって帰らない。それが、毎日だからすごい」とも。
もともと足腰は鍛えられている。そして、驚くほどの情熱があった。西田氏の確信の理由は、その辺りにあったらしい。
■町内最弱から日本最強へ
町内最弱だったイーグルは、猛練習ばかりでなく苫工、西小などで鍛えられた選手が次々と王子製紙に入社してチームに加わることから、発足後数年で全道に通じるチームにのし上がり、1932年には第3回全日本選手権で初優勝して名を挙げる。そして迎えた35年の第6回大会は、翌年ドイツで開かれる冬季五輪の選手選抜を懸けたものだった。
準決勝まで進んだイーグルは、強豪「満州医大」と対戦。2点をリードされて迎えた第3ピリオド開始早々、西田コーチは「五人攻撃」の合図を発した。「あまりにも意表をついた作戦でみんな驚いた。(略)やっとのことで2点を返し、延長でも徹頭徹尾五人攻撃で1点を入れ、ついに勝つことができた」と五輪出場の二瓶寅男氏。日光精銅所との決勝も「五人攻撃」の連続で第2ピリオドから逆転、6―3で優勝を手にした。
「戸巻ノート」が完成した翌年のことである。
(一耕社代表・新沼友啓)