市政に「市民の生の声が届いていない」との現状に奮起し、昨年12月の苫小牧市長選挙への挑戦を考えた。しかし、組織づくりが進まず、準備不足もあって出馬を断念。今後は「人をつなげる活動に取り組みたい」と話し、できる範囲で地域社会に貢献しようと考えている。
子どもの頃は「何に対しても一直線だった」と言い、中でも絵を描くことに夢中だった。中学、高校時代は生徒会長を務める優等生で、正義感の強さから、いじめの仲裁に入って腕っぷしの強い同級生ににらまれた経験もある。高校卒業後は周囲が進学する中で家業の看板業を継いだ。「ずっと絵を描き続けたかったから」で、芸術肌な一面も持ち合わせた。
苫小牧の画家で二階堂昊氏(故人)に師事。苫小牧美術協会会員として、油彩やアクリルで人物画や抽象画を描いた。友人らと3人でアパートの一室を借りて絵画サークル「洗濯船」を設立。夜ごと仲間同士で酒を酌(く)み交わし、芸術談義に華を咲かせた。
23歳からは「苫小牧映画祭」の実行委員会メンバーに加わり、名作や叙情的な自然描写が特徴的なアンドレイ・タルコフスキー監督の「鏡」などを上映。映画評論家のおすぎさんを招いたトークショーも開いた。「ポスター製作や宣伝活動で本業が生きた」とも語る。
サラリーマン経験はなかったが、家業の仕事や絵画サークルで”人間関係”を考え始めた頃、絵を通じて出会った女性と27歳で結婚。三女に恵まれ順風満帆な生活を送れた。「家族ができて人のつながりが深まるにつれ、芸術より人間関係に主眼が移った」と話す。
1980年代は日本経済も活況で、映画祭の広報活動で訪れたビストロ(飲食店)の看板を手掛けるなど「趣味が実益につながった」と、古き良き時代を懐かしむ。飲食店や理容室のほか市博物館の企画展への依頼もあって、趣味と本業で多忙だった。
看板業の実績を積み上げて、89年9月に苫小牧市で開催された第44回国民体育大会「はまなす国体」では、JR苫小牧駅前南口と市総合体育館前に高さ10メートルの広告塔を2棟建てた。「デザイン入札で選ばれたことが看板屋としての誇り」と胸を張る。
80~90年代は、札幌のカウンセリング学習会に足を運んで傾聴の心構えを学び、反原発や環境保護を訴える社会運動にも参加。命は尊いものと思うことから「小さき声を集め大きなうねりができれば世の中は大きく変わる」と、民意で社会を動かす理想に燃えた時期もあった。
現在は、政治活動への興味は持ちつつ、多方面で活躍する地域の人にスポットを当てたネット動画の配信を計画。「損得にとらわれない発想で、情報をうまく発信して地域と人の役に立つ存在を目指したい」と語った。
(藤岡純也)
◇◆ プロフィル ◇◆
紺谷博樹(こんや・ひろき)1961年5月11日苫小牧市生まれ。苫小牧東高校卒。元苫小牧美術協会会員、88~89年に反原発運動、97~99年まで環境問題に取り組む「ネットワーク地球村」の代表を務めた。かんばんのこんや代表。苫小牧市山手町在住。