厚真町観光協会が企画する一大イベントとして定着した「田んぼのオーナー事業」を生み出し、町の最大行事「あつま田舎まつり」では本祭会場の移転を実現させた。町商工会会長、町田舎まつり運営実行委員会、町まちづくり委員会のいずれも委員長など数々の肩書を持ち、厚真の経済活性化をけん引してきた。今の厚真の礎を築いてきた一人だ。
町内で市街地の48棟が全焼し、20棟が半焼した厚真市街大火があった翌1950(昭和25)年、当時の厚真村で産声を上げた。3年後には厚真高校が開校し、「村」から「町」になったのは生まれて10年後のことだ。「まだ大学へ行くのはごくわずかだった」時代。地元の高校を卒業後、東京の携帯ラジオなどの製造会社で営業を経験して2年後に帰郷。厚真町内の電気店勤務を経て、28歳で「厚信電機」を起業した。
町の経済活性化に向けてたくさんの種をまいてきた。観光協会の会長を務めていた頃に「厚真の米をPRするには何をしたらいいのか」と、稲作体験観光の先進地でもある福井県を視察。ノウハウを持ち帰り、2007年に種まき・田植えから収穫までの一連を体験できる事業として田んぼのオーナーを立ち上げた。初年度は20区画ほどだったが、徐々に申し込みが増えていき、胆振東部地震翌年の19年には復興を応援する動きもあって95区画を受けるイベントへ成長した。
田舎まつりにおいては、実行委員長就任に合わせて、町内の経済効果や会場へのアクセスを踏まえ、「まちなかでやるべき」と当時幌内地区のダム広場だった本祭会場を今の表町公園に移すことを提案した。畑をつぶしたり、山を削って駐車場にしていたが、「一本道でアクセスもよくなく、飲酒もできない状態。田んぼに突っ込んでいる車もあった。ダムの建設工事もあってちょうどタイミングもよかったのかもしれない」と回想する。
当初は「それでは田舎じゃないだろ」「山の中でやるべき」と反対意見も少なくなかったというが、何度も会議を重ねるにつれて理解を得て移転にこぎ着けた。そのかいあって08年の人出は約3万人を数え、前年比で2倍以上を記録。商店街は活気にあふれ、「商店では『かつてないほどレジを打ち込んだ』と聞いている。しっかり定着してよかったんじゃないかな」とほほ笑む。
厚真に根を張り、子ども4人を育て上げ、今は10人の孫に恵まれる。「孫たちが大きくなった時に、自然豊かで住み心地よいまちであれば」―。そんな青写真を描き、今なお最前線で町の発展に汗を流す。
(石川鉄也)
寺坂文秀(てらさか・ふみひで) 1950(昭和25)年3月、当時の厚真村生まれ。厚真高校卒業後、都内の民間や町内電気店で勤務した後、78年に厚信電機を起業した。町商工会の理事を経て、2007年に会長職に就任。この間、町観光協会の会長も務め、今年度秋の叙勲で旭日単光章(中小企業振興功労)を受章。厚真町本郷在住。