<1>昭和20年 敗戦で一変、虚脱と混迷 物資、食糧不足が人々を襲った

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月30日
終戦直後の食糧難で自給畑を耕す人々(年代不詳)
終戦直後の食糧難で自給畑を耕す人々(年代不詳)
勇払を空襲する米軍艦載機(昭和20年7月15日)
勇払を空襲する米軍艦載機(昭和20年7月15日)
米軍機の機銃弾(勇払駅)=左=、艦砲射撃の砲弾の破片(王子製紙)=奥=の展示(苫小牧市美術博物館)
米軍機の機銃弾(勇払駅)=左=、艦砲射撃の砲弾の破片(王子製紙)=奥=の展示(苫小牧市美術博物館)
浅田正明・元苫小牧警察署長(「郷土の研究」第4号より)
浅田正明・元苫小牧警察署長(「郷土の研究」第4号より)

  敗戦とともにわが国が平和と民主主義を根幹とする新しい時代に踏み出したのは今から77年前、昭和20(1945)年8月のこと。私たちの郷土もまた新時代への出発点にあった。以来の歩みをたどれば、人々は飢えをしのぎ、教育を復興し、港を掘り、原野を工場用地とし、湿地を埋め立てて住宅地に変え、まちは多くの先人たちが望んだように拡大していく。しかし一方で、あまりにも激しく変貌する郷土を目の当たりにして「果たしてこれで良いのか」という声が絶えず人々の中にあった。この地域の進展は、開発とそれに対する問い掛けの中で成り立ってきた。両者はまちづくりにとって相反するものではなく、一体のものであった。

  来年の苫小牧市制施行75年に向けたこのシリーズでは、郷土の変遷が濃縮された戦後昭和の時代、人々が時々の課題にどのように向き合ってきたのかを見る。初回は敗戦による虚脱と混迷の昭和20年である。

 ■爆弾の行方

  7月15日の朝。折からの空襲警報に防空頭巾をかぶって窓から表通りをのぞいていた竹本きくさん(当時40代)は「ドスンというそう大きくない音がして、卵型の黒いものがゴロゴロと二条通を越えて転がっていった」のを見た。家は呉服店で、すずらん通りと二条通りの北東角にあり、「黒いもの」は理髪店の方へと転がっていった。

  この日、苫小牧は前日に続き2度目の空襲を受けた。艦載機十数機が王子製紙、国策パルプなどを爆撃し、町一円に機銃掃射を浴びせた。投下された爆弾のうちの1発が錦町に落ちた。それを、きくさんは見たのだった。

  理髪店を営んでいた石渡ヨシエさん(当時30代)は、逃げ込んでいた防空壕(ごう)の前に、その爆弾が転がってくるのを見た。

  「爆発するぞと誰かが叫んだので、防空壕から飛び出して夢中で走ったんです。気が付くと王子プールの所(現工場構内)に立っていました」

  爆弾はプロペラのようなものが電線に引っ掛かり、本体は着弾したが不発だった。電線に引っ掛かったことが不発という幸運を呼んだのかもしれなかった。1時間ほどして、軍人と消防隊員が不発弾の処理をしに来た。

  半月後の7月31日には潜水艦からの艦砲射撃を受けた。終戦はその半月後のことだった。(証言は苫小牧民報昭和61年7月26日付による)

 ■虚脱と繁忙の中で

  その頃、苫小牧町(当時)は防空施設の整備に奔走し、昭和20年度だけで警防費約11万円を計上していた。同年度総予算は約117万5000円であったから、その10%近くが防空施設の構築などに充てられ、警防に携わる職員や消防士の人件費を合わせると年間予算の3分の1ほどにもなった。

  戦時に関わる町の仕事は数多くあった。兵器弾薬を造る金属類、火薬原料の綿を得るための座布団を町民から集める。食糧、生活物資の統制管理、配給をする。苫小牧町がこの年集めた鉄は約500キロ、アルミは約610キロ、火薬用綿は2813キロ。為政者は古い鍋釜で造った大砲や飛行機、座布団から造った火薬でB29と戦おうとしていた。

  敗戦によってそれらが一変した。「終戦によってすべての事が一転してしまい、精神の一時的虚脱と極度の事務繁忙に追われた(要約)」。軍事、警防への予算と人を厚生、復員者の援助に回す。「それらを遅滞なく講じた」と昭和20年の苫小牧町事務報告は記す。

 ■深刻化する食糧不足

  しかし、食糧は悲惨だった。戦時の食糧難に加えて凶作が追い討ちをかけた。米の公定配給量は日本人が一般に食べる量の3分の2ほどであった。大ざっぱに言って、当時人口2万7000人の苫小牧では平時なら年間6万7500俵、統制下でも4万5000俵ほどが必要だった。しかし、町が取り扱った粳(うるち)米は3万3208俵しかなかった。みそもしょうゆも不足し、塩は企業や漁業会などに呼び掛けて海水から製塩した。町は釜8基を備えた製塩所を造った。

  「8月中旬まではあらゆる配給物資は極度に窮屈となり、配給操作は相当困難であった。終戦後は軍関係から多くの放出物資があったが、その後は日に日に逼迫(ひっぱく)し、特に主要食糧関係は急激に逼迫し(略)現状に立ち至ったことは真に町民に申し訳ない」(昭和20年苫小牧町事業報告)

 ■町ぐるみで闇買いを

  町は、中野地区にあった町営牧場を町民農場として開放し、食糧自給を助ける計画を立てた。実地調査を10月から始め、11月には開場した。しかし、季節はすでに冬を間近にしていた。

  当面どうするか。「食糧事情は本道希有の凶作と戦後の悪条件に禍されて全国的に不安な状態が続くが、本町は自主的にその対策に努めるため食糧対策委員会などの挙町一致の協力により危機打開に邁進しつつある」(同)

  町、国策パルプ、王子製紙が時の警察署を巻き込んで、町ぐるみで「ヤミ」の食糧を買いに走る。そんな構想が持ち上がり、食糧対策委員会が発足したのは12月25日のことであった。

一耕社代表・新沼友啓

 (参考=苫小牧市史、苫小牧町昭和二十年事務報告、苫小牧民報、月刊ひらく)

 お断り=本紙は原則として年号を西暦で表記していますが、「戦後昭和史」という企画の性格上、和暦表記とします。

 ■食糧対策委の闇買い

  昭和53年に苫小牧郷土文化研究会が開いた座談会「終戦直前・直後の治安を語る」の中で、浅田正明・元苫小牧警察署長は食糧対策委員会について、次のように語っている。

  「私の記憶では12月だったと思う。南喜一さん(国策パルプ専務・勇払工場長)が署長室に目の色を変えて来ましてね、『俺は南だ。前の署長は反対しておったそうだが食糧対策委員会をつくれ』と言う。苫小牧では今七十何日分かの(配給の)欠配があり、これは深刻な問題だと思っていた。それで(南さんに)『おつくりなさいよ』と言った。王子の大塚工場長もお呼びして『一つだけ条件がある。(闇買いをして)CIC(米陸軍対敵諜報部隊)の調査がきた場合はごまかしがきかないから検挙する。あとのほうは検挙しませんから』(略)と言った。常識的に判断して認めたんです」

 (「郷土の研究第4号」より概要、写真)

 【昭和20年】

 苫小牧の戸口=5,343世帯/26,832人

 苫小牧町長 八巻耕三

 町財政規模 歳出(決算)117万5653円

 7月14日  空襲。王子製紙、国策パルプ、錦岡方面に爆弾、焼夷(しょうい)弾を投下。錦岡などで死傷者

 7月15日  空襲。王子製紙、国策パルブおよび錦町に爆弾(錦町は不発弾)、焼夷弾を投下

 7月31日  潜水艦による艦砲射撃。王子製紙、王子町、本町、幸町で被害

 8月15日  無条件降伏、太平洋戦争終わる

 8月24日  苫小牧味噌醤油醸造株式会社設立

 11月    中野の町有共同放牧場を全面開放し「町民農場」とする

 11月22日 「食糧危機突破運動」を実施(12月6日まで)

 12月25日 苫小牧町食糧対策委員会発足

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