9期36年にわたり道議会議員、2003年5月から05年6月まで議長として、共生社会実現と民族共生象徴空間(ウポポイ)開業などに尽力した。戦争の傷跡から始まる幼少期、政治家を志した少年期。神部典臣さんは「昔のことはあまり語ってこなかった」と振り返る。
1939年、映画制作会社の松竹でスチルカメラマンをしていた父と小学校教諭の母の元に5人きょうだいの3人目、長男として誕生した。東京大空襲で被災し、家屋は全焼。5歳で母の実家がある岩手県花巻市に移住した。花巻小、花巻中と進み、中学では水泳に取り組んだ。当時は「フジヤマのトビウオ」という異名で知られた水泳選手、古橋廣之進や橋爪四郎の活躍がまぶしかった。54年8月の第7回岩手県中学校競泳大会で男子200メートル自由形で2分58秒を記録し1位に。「先生の教え方が良かった」と振り返る。
花巻北高校ではスポーツから身を引き、大学進学を目指して猛勉強を始めた。古くからの温泉旅館が立ち並ぶ花巻だが、戦後の復興もままならず、まちの人々の貧困を目の当たりにしたことで、勉学の道に進もうと決心した。18歳、念願の早稲田大学に合格し、入学金の3万円は「担任だった佐々木泰一先生が職員会議などで掛け合って集めてくれた」。花巻郵便局から東京目黒の郵便局に送金したものの、折しも郵便局のスト中で大学に届かず、入学が認められない事態に。浪人生活の1年間は、母の紹介で吉田茂(元首相)側近の小沢佐重喜を頼り、自由民主党本部で労働や建設問題などの陳情事務に関わった。
無事早大に入学でき、卒業後は、室蘭出身の代議士、南條徳男の秘書に。師とあおいで政治家のいろはを学んだ。78年に白老町へ移住、83年の道議選に挑戦し初当選した。
当選して1年近くたったころ、北海道ウタリ協会の野村義一理事長(当時)からアイヌ民族問題の実態を聞かされた。当時は旧土人保護法という差別的な名の法律が存在しており、「同法をなくし、民族の尊厳を回復する新しい法律を」と訴える野村氏の心に打たれた。
84年3月、道議会定例会で、民族の自立や格差解消を目指す新法制定の考え方について横路孝弘知事(当時)を追及。同法廃止と新法を作るよう国に求めていく知事の考えを引き出した。
この質疑が一つの契機となり、97年の旧土人保護法廃止とアイヌ文化振興法の制定、そしてアイヌを先住民族として法的に定めた2019年5月施行のアイヌ施策推進法の流れにつながった。
横路、堀達也、高橋はるみ、鈴木直道と4人の道知事と向き合った。現在は「札幌に移らないかという話もあったが、白老でのんびりした方がいいね。近所の付き合いが楽しいからね」と笑う。
(半澤孝平)
◇◆ プロフィル ◇◆
神戸 典臣(かんべ・のりおみ) 1939(昭和14)年7月、東京都大田区生まれ。早稲田大卒。83年の道議選で初当選。2008年の洞爺湖サミットでは各国首脳に白老牛を提供するきっかけをつくった。23年秋の叙勲で旭日中綬章(地方自治功労)を受けた。白老町大町在住。