◇1 引き揚げ、婚姻で「団塊世代」 子どもたちの姿が街中に

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年4月8日
昭和31年王子社宅街、遊びの相談?左2人は兄妹か
昭和31年王子社宅街、遊びの相談?左2人は兄妹か
ラジオ体操に集まった子どもたち
ラジオ体操に集まった子どもたち
馬車の後を子どもたちが歩いている。場所は王子製紙の現若葉門前の弥生町。この頃は子どもも大人も、王子構内を通って街の東西を行き来できた。市内自動車保有台数は638台、馬車410台。ようやく自動車が馬車を上回った。(昭和31年)
馬車の後を子どもたちが歩いている。場所は王子製紙の現若葉門前の弥生町。この頃は子どもも大人も、王子構内を通って街の東西を行き来できた。市内自動車保有台数は638台、馬車410台。ようやく自動車が馬車を上回った。(昭和31年)
白金町に残るブロック造りの王子社宅
白金町に残るブロック造りの王子社宅

  私たちはこれから1年間にわたって昭和30年代の苫小牧を歩きながら、その街角の風景を眺める。そしてできれば、その風景の中に子どもたちの表情を見つけていきたい。なぜ昭和30年代かといえば、便利と不便、伝統と進歩、今の世の正と負につながる多くの要素が混在する興味深い時代だからであり、なぜ子どもかといえば、いつの世もそうだが、そういった社会の影響をより明らかに反射するのが子どもたちだからである。紙面に登場する子どもたちを見ながら、今の子どもたちと社会に思いを巡らそう。

   ■時代の交差点

   紙面左側の大きな写真は、昭和31年の王子製紙の社宅街での一こまである。

   この時代、日本では戦後の復興が成り、苫小牧では昭和26年から始まった港づくりが進み、工業都市への新たな歴史を刻んでいた。この年、自動車時代に即応した市立自動車学校が矢代町に開設され、苫小牧地方での一般テレビ放送が開始される。「もはや戦後ではない」と記されたのは、この昭和31年の「経済白書」であった。

   子どもたちの生活も大きく変わっていった。脱脂粉乳の質素な学校給食は徐々に改善され、生活の中に洗濯機やテレビが持ち込まれ、「古き良き時代」と「新しい便利な時代」が混在する時代の交差点の中で、子どもたちは遊び、学び、次の時代へと成長していった。

  ■新入学児が前年比1割増

   とにかく子どもの数が多い。町内一区画を巡っただけで、20人やそこらの子どもたちに出会うことができる。それも、同年代の子どもたちがぞろぞろいる。当時の苫小牧民報が、次のような記事を載せている。

   「苫小牧市教委では(昭和三十一年)四月一日に新しく入学する児童の申告を一月三十一日で締切った(略)。それによると二月一日現在の市街地の入学児童数は、東小三百五十六名、西小五百六十八名、若草小四百三十八名、合計千三百六十二名で、昨年からみると東小は九名、西小は八十二名、若草小は五十六名、合計百四十七名多く、10・8%の増であった」(昭和31年2月8日付)

   つまりこの当時市街地にあった小学校3校で、新1年生の学級数が10学級ほども増える計算になる。

   「市内の入学児童は昭和二十八年ころから一学級ずつ増えてきているが、今春はかつてない記録をつくった。この原因について市教委では、今春入学する児童は昭和二十三、四年に生れた子供たちであり、当時は終戦直後で復員者や引揚者が続々帰国したため市の人口もドッと増え、同時に婚姻も相当あったため(略)。例年、三月に入って申告する者が相当あることから、もっと増えるものと予想される」

   とてもではないが教室が足りない。その後市教委は、1教室に50数人から60人詰め込めば、小学校3校の新年度学級数は東小33(前年度31)、 西小45(同41)、 若草小35(同32)で、9学級増で済むと算出した。

  ■時代につくられた意識

   写真の中に登場する子どもたちはこの後、使い捨て時代を経験し、高度経済成長期をモーレツ社員として支え、毎年1万円以上も給与が上がることに驚喜し、公害におびえ、オイルショックに驚き、バブルに踊り、そして衰退を見る。今70代の人たちの意識はその中でつくられてきた。

   時代は昭和から平成、令和に至り、社会は大きく複雑化した。その中で取り沙汰されるのは「世代間格差」の急速な広がりだ。それが何に起因するのか、昭和の街角風景を振り返り、今を見詰めれば、わずかなりともその理由を感じることができるかもしれない。

     (一耕社・新沼友啓)

 風景今昔 子どもたちでにぎわった社宅街 今は悠々とシカが遊ぶ

 

 上の写真を見よう。ブロック造りの王子社宅の前で、子どもたちが仲良く肩組みしている。帽子の記章は、西小学校のものだ。2年生か3年生くらい。男の子2人は学生服を着ている。この頃は、普段から学生服を着ている小学生たちが、当たり前にいたのだそうだ。今では考えられないのでびっくり。オカッパに毛糸のパンツの女の子は就学前か。

  ブロック造りの住宅、舗装されていない道路。何もかも今とは違う。当時、子どもたちはこうやって家の外で、元気よく遊び回っていたのだという。今の子どもたちの遊び場は公園。写真のように家の周りや道路で遊んでいたら、車が通って危ないからとしかられること間違いがない。

  でも、鬼ごっこをしたり隠れん坊をしたりと遊ぶ内容は今も昔も変わらない。何だかそれにはほっこり。変わったのは子どもたちではなく、周りの環境、大人たちの生活だ。

  紙面右端の写真は近所の子どもたちのラジオ体操らしい。ざっと数えて150人ほどもいて、4、5学級分にもなる。後ろの方にブロック造りの王子社宅が並んでいる。左側の大きな建物は、「配給所」で、今のスーパーマーケットのようなもの。でも、買い物籠やレジがあるわけではなく、店員さんの対面販売だった。「配給所」の向かいには共同浴場があったという。

  今のどの辺りだろう。古い地図で調べると、今の弥生町のホームセンター(弥生中学校跡地)の北側だったと分かった。当時でいう王子製紙西部社宅二区から三区にかけてだ。早速、その場所に行ってみると、ブロック造りの社宅街は新興住宅街や公園になり、写真とは全く違った風景があった。

  写真に写っている社宅は、アッシュブロックでできていた。このブロックは王子製紙の工場から出る石炭殻とセメントを混ぜたブロックで、いわばSDGsか。どこかにその社宅が残っていないかと探すと、弥生町の北側の白金町にあった。フェンスで囲われているので近くまでは行けない。そのフェンスの中でエゾシカがのんびり餌を食べていた。 (一耕社・齋藤彩加)

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