敗戦後の食糧難は昭和25、26年にはずいぶん改善され、昭和28年ごろには化粧品なども一般に出回り始めて、人々は窮乏から次第に抜け出していった。代わって大きな問題となったのは、公衆衛生、特に赤痢などの伝染病予防であった。便所はくみ取り式で台所排水も浸透槽式。家庭から排出されるごみは屋外に置いた木製のごみ箱に集積された。このため家の内外にネズミやハエなどが飛び回っているのは当たり前で、赤痢やチフスの発生を招いた。行政や地域、各家庭での衛生活動が展開され、その積み重ねが、数匹のハエに驚き騒ぐような現在の衛生状態をつくっていく。
■赤痢大流行の兆し
赤痢の流行は、昭和30年代半ば以前に多い。全国では年間10万人ほどが罹患(りかん)し、多い年では2万人もが亡くなったという。
赤痢は菌による感染症で、大腸が激しく炎症して出血し、潰瘍を伴い、発熱、下痢、吐き気などの症状を発する。特に乳幼児、子どもが重症化しやすく、けいれん、意識障害を起こして短時間で亡くなる疫痢というのもある。ふん尿などから食物や水などを経由して、経口感染する。ハエやネズミが菌を運ぶ。
それが昭和29年、苫小牧で流行した。
一般には春先から流行が始まり、真夏をピークに秋まで流行するのだが、この年は4月末ですでに13人もが発病した。前年同期の赤痢発病者は1人で、その患者が亡くなっている。それがこの年はすでに13人というのだ。患者数は、1カ月後には23人に増え、その半月後にはさらに10人増えて33人となり、大流行の兆しが見え隠れした。苫小牧市の担当課は緊張した。
■防疫対策本部設置と予防運動
緊張したのは、市民の健康という真っ正面の理由からだけではなかった。この年の夏、苫小牧市に天皇皇后両陛下がおいでになること(8月10日)が決まっていたし、国民体育大会柔道大会の開催(8月23日)も予定されていた。赤痢の大流行で万が一これらが中止にでもなればどうなるか。せっかく軌道に乗り始めた港づくりにも、大きな影響を与えかねない。港づくりに関していえば、本邦初のアイソトープ(放射性元素)による漂砂の調査の実施が行われようとしていた矢先である。とにかく、その大流行を沈静化させなければならなかった。
市は、赤痢流行の兆しが見え始めた4月、防疫対策本部を設置し、流行の拡大が感じられた6月、全市を挙げての赤痢予防運動を開始した。
「学校、職場、各団体・機関は(1)児童生徒、職員を通じて各家庭に予防思想を徹底されたい(2)すべての便槽やふん便を完全消毒すること。濃度3%のクレゾール液を投入して十分に撹拌(かくはん)し、2時間以上放置すること(3)食事前、用便後、帰宅時は必ず手を洗うこと。家庭、職場に消毒施設を必ず設けること…」
家庭にはクレゾール液やクレミール(逆性せっけん液)を入れた洗面器が置かれ、子どもたちが「病院みたいだ」「くさい、くさい」などとはしゃぎながら手をひたす光景が見られた。特に重要なのは生水を飲まないこと。そして、菌を運ぶハエやネズミの駆除であった。各戸を消毒班が回り、薬剤を散布した。
これらの運動が功を奏してか、普段ならピークとなる7、8月の流行は抑えられた。しかし、9月から10月にかけて罹患数が大幅に増えたのは、両陛下のご来訪も無事に済ませ、国体も終わった気の緩みからか。結果、この年は10月までに130人を超える罹患者があり、そのような赤痢の流行はその後昭和30年代半ばまで続き、予防運動が展開されるのである。
■公衆衛生、ごみ処理の変化
赤痢予防の運動は、その後の時代の公衆衛生や医療体制に大きく寄与したかもしれない。大流行の始まった昭和29年には、錦岡診療所(6月)や市立病院の伝染病棟が完成(8月)した。同30年には市立病院に准看護婦養成所が開設(4月)され、翌年にかけて錦岡や沼ノ端に簡易水道が完成して給水が開始された。
また、国の清掃法制定に合わせて苫小牧市清掃条例の制定(健康、衛生、美観の向上など)が進められ、昭和31年4月1日から実施された。浜町(現高砂町)に道内初の下水処理場が完成し、操業を開始したのは昭和34年のことだ。
家庭のごみは「生ごみは養豚業者へ。燃やせるものは各家庭で焼却し、農作物の殻は畑に埋める。それ以外の塵芥は家の横や道路脇などに設置されたごみ箱へ入れる」というのがこの頃の一般的な処理方法で、市は戸別や共同の屋外用ごみ箱(幅60センチ×奥行き50センチ×高さ70センチ、防腐剤塗布、木製)をあっせんし、補助金を出した。
しかし、経済の発展、生活様式の変化で、ごみの内容物もどんどん変わっていく。この時代、さまざまなごみ処理の方法が検討され、ごみ袋(紙製)に入れて道端に出し、パッカー車が収集にやってくるという現代に近い形になったのは昭和44年ごろからのことである。
(一耕社・新沼友啓)
本欄上の写真でリヤカーに積まれているのは消毒薬の噴霧機械。これから各家庭を回るところの一枚。玄関から家の中に消毒薬を噴霧して、一軒丸ごと消毒する。
写真当時は衛生状態が悪く、家の中や、便槽のくみ取り口、台所の排水口を年に何度か消毒しなければならなかった。子どもたちにとってはこんなことでも一大イベント。物珍しさで一緒について回ったのだという。一軒一軒回って消毒するほど衛生状態が悪かったということが想像ができる。
本欄すぐ右の写真。ごみが散らかっているように見える写真は、東部社宅街に設置されているごみ箱。今でいうごみステーションだ。よく見ると木の籠やタイヤなどがある。ごみ箱に入らないから横に置いておく。今ならもはや不法投棄だ。街の路肩に等間隔に置かれたごみ箱に家庭から出たごみを出す。これは今でも同じだが、違うのは何でも捨ててしまっているということ。そしていつでもごみを出していたらしい。収集日は決められていたのだろうか。
東部社宅街があった若草町を歩いた。今も変わらず路肩にはごみ箱が設置されているが、ごみがあふれているところは一つもない。臭いもまったくしない。道はアスファルトに舗装され、清掃しやすい。ごみを捨てるということへの意識が変わり、ごみの内容や出し方も変わっていった。
今は、決められた日にきちんと分別をして出すのが当たり前。運動の積み重ねの成果だろう。
(一耕社・斉藤彩加)