<31>昭和50年 不況深刻化、苫東開発に期待集まる 物価高止まりに「産直」人気

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年7月24日
物価高の中、野菜の直売で笑顔の人々(昭和50年10月)
物価高の中、野菜の直売で笑顔の人々(昭和50年10月)
「空港みたい」と評判だったフェリーターミナルのギャグウエー(連絡路)
「空港みたい」と評判だったフェリーターミナルのギャグウエー(連絡路)
市長選で4期目当選を果たした大泉源郎氏(昭和50年4月)
市長選で4期目当選を果たした大泉源郎氏(昭和50年4月)
山田正儀氏
山田正儀氏
昭和50年の苫小牧市議選後の会派構成
昭和50年の苫小牧市議選後の会派構成

  

  後の時代の分析では、第1次オイルショック後の景気後退は昭和50(1975)年3月には底入れし、以降徐々に回復したとされる。だが、実感としてはとてもそのようではなかった。内需の減少、燃料価格の高騰で鉄鋼や紙パルプなどは大幅赤字となる。高度経済成長時代の「ぜい肉」を削ぎ落とす減量経営が行われ、苫小牧では新年度採用者の自宅待機(山陽国策パルプ)、一時的な操業停止(大昭和製紙白老、2日間)、非常対策本部の設置(王子製紙)が行われ、苫小牧商工会議所も「緊急経営安定対策本部」を設置した。狂乱物価は高止まりし、市民生活は苦しい。不況を背景に、産業界はその打開を苫東開発に求め、統一地方選挙では開発推進派が勝利。市民生活では生活防衛の産地直売がにぎわう。

  

 ■苫小牧港・西港、現苫の明暗

  

  経済の様子を現苫に見よう。

  

  まず港のこと。苫小牧港(西港)は昭和26年の着工から24年間の建設工事で主要施設が出そろい、ほぼ完成に近づいた。後は勇払埠頭(ふとう)を残すのみで、これも51年度には完成する。昭和50年に注目されるのはカーフェリー専用バースの供用開始。それまでは東埠頭を使用していたが、工業港区入り口に専用バースとターミナルができた。大型車150台、シャーシー220台、乗用車220台など4万2000平方メートルの駐車場を整備。6社6航路12隻が就航し、全国一のカーフェリー基地となった。ターミナルからフェリーへと渡る「空港のようなギャグウエー(連絡橋)」が人気を呼び、工業港、流通港は観光港としてイメージを一新していく。

  

  次に臨海工業地帯のこと。こちらは不況の影響で足踏み状態だ。現苫2450ヘクタールのうち工場用分譲地は約1100ヘクタール。そのうち940ヘクタールが50年暮れまでに分譲済みとなり進出企業は82社。ただし、操業しているのは47社で、未操業35社の中で50年度中に着工を予定していた16社がいずれも延期を表明した。全体を見れば建設・操業計画は1年遅れ10社、2年遅れ13社、3年遅れ1社など、多くが景気の回復待ちとなった。

  

 ■12年ぶり市長選で保革激突

  

  不振を苫東開発の推進によって打破しようという産業経済界の動きは活発で、地方政治、行政も苫東を中心に動いた。

  

  4月に苫東賛否のクライマックスとも言える統一地方選挙があった。知事選は保守系無所属で現職の堂垣内尚弘氏と革新系無所属の五十嵐広三氏の一騎打ちで堂垣内氏が勝利。苫小牧市長選は現職の大泉源郎氏と革新系無所属で出馬した神谷与四郎氏が苫東を争点に対決し、苫東推進の大泉氏(4万967票)が約1万1000票の大差で勝利した。

  

  「不況下で開発によりどころを求める市民が圧倒的に多く、開発都市・苫小牧のナマの姿が即選挙に現れたと言っても過言ではない。(企業)ぐるみ選挙が保守系の伸張を促したという見方もあるが(苫東推進政策が)不況下とマッチした(略)。(苫東推進への)対応策を打ち出せなかった革新陣営の弱さも敗北につながった」(12月2日付「苫小牧民報」)。

  

  市議選は定数36に対して48人が立起。投票率84%。保革、苫東賛否などの諸々は別として、まちの将来を巡って多くの人々が名乗りを上げるという真剣さを、今の私たちは見習わなければならない。結果は社会党が2議席減の7人、自民は8人全員当選。民社、公明、共産は善戦。

  

  振り返れば、保守系=苫東(開発)推進、革新系=苫東(開発)反対の構図を固定化させたのはこの選挙からではなかったか。苫東は現苫の「挙市一致」を「対立」に変え、その対立構造は50年の統一地方選挙の保革激突以降、「分断」の様相を呈していく。

  

 ■市民生活と街づくり

  

  狂乱物価の落ち着き先は、下がることを知らない高値安定だった。「高原物価」とも言ったらしい。

  

  全国を見れば、物価高を背景に野菜などの産地直送が人気を呼んでいた。新鮮だし何より安い。苫小牧でも発足10年目を迎えた消費者協会がこれに取り組んだ。消費者協会ばかりでなく「野菜の日」や「魚の日」を設定した業界も一緒になってやった。こちらは「挙市一致」だ。消費者と業界が連動しての産直は全国でも珍しかった。

  

  収穫シーズンの10月、まず消費者協会と「野菜の日」「魚の日」の設定協議会が18日に「秋野菜を少しでも安く」と直売会を実施。25日にはホクレン、これと並行して苫小牧市農協と苫小牧市がタイアップして地元野菜品評会を兼ねながら実施するなど、この月だけで5回の産直があり、毎回、多くの人々がどんと買い入れた野菜をマイカーやリヤカー、乳母車で運んだ。

  

  街づくりでは、駅前や駅裏の再開発の進ちょくや、錦大沼公園や高丘森林公園の整備計画浮上などが挙げられるが、詳細の紹介は後の機会にしよう。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■漁民がいる限り海はなくせない

  

 この年、苫東に伴う漁業補償交渉が決着した。苫小牧漁協組合の役員(昭和60年から14年間は組合長)を務めた山田正儀さんの話。

  「苫小牧の将来を考えると(苫東は)やむを得ないのかなとは考えた。だが、ここに漁民がいる限り海をなくするわけにはいかない。それで、全国の先進工業地帯の視察に出掛けた。大分県の鶴崎(製鉄、石油化学工業地帯)も見た。ところが、どこに行っても漁協の建物さえ満足に残っていない。遊漁船の組合になって細々と残っていたり、個人の家に看板を出しているだけ。都市化した地域の漁民は本当に哀れだ。港ができて工業地帯になってしまったら、漁民は残れない。そんな状況を見て、つくづく『こんなふうになってはいかんな』と思った。結局、先進工業地帯では、われわれがモデルにしたいような地域はどこにもなかった。それで、漁業権のある海を減らすのなら、それに見合うような漁業振興策をとらなきゃだめだと頑張った。団体で交渉して、無理押ししないとなかなかやってくれないから、頑張ってしゃべったさ。そんなことをやっているうちにスケソはとれるようになってきたし、ホッキも少しずつ回復してきた」

 (1999年11月10日付「苫小牧民報」)

  

 【昭和50年】

  《日本と世界の出来事》

  

 中国残留孤児公開身元調査開始(3月)/サイゴン政府無条件降伏でベトナム戦争終結(4月)/紅茶きのこブーム(6月)/米ソ宇宙船ドッキング成功(7月)/広島東洋カープ初優勝(10月)/主要先進国第1回サミット(11月)

  

 4月 1日 フェリーターミナル完成

 4月 7日 糸井小学校開校

 4月12日 苫小牧市北中央通り(双葉中央通り)地域商店街再開発推進期成会発足

 4月28日 大泉市長4期目当選

 4月30日 苫小牧市教育研究会発足

       支笏湖のヒメマス奇病発生により全面禁漁

 5月    錦多峰川取水場の施設完成

 7月 1日 中野地区に一本松、晴海、真砂の3新町名誕生

 7月 5日 一条銀座新アーケード建設5カ年計画の第1期工事落成

 8月20日 総合レジャー施設「ジョイランド樽前」(錦岡)オープン

 8月28日 苫東開発に伴う苫小牧港東港づくりの漁業補償問題決着。苫小牧漁協組は補償額53億5600万円を受け入れ

 9月 3日 苫東予定地内の埋蔵文化財調査始まる

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