青木ダンススクール代表 青木憲隆さん(77) 社交ダンスに魅せられ50年 「仲良く踊る」大切に指導

  • ひと百人物語, 特集
  • 2020年2月8日
東京五輪の今年、社交ダンス歴50年目になる青木さん
東京五輪の今年、社交ダンス歴50年目になる青木さん
選手時代の青木さん=1980年代
選手時代の青木さん=1980年代
ドラマのロケで俳優の船越英一郎さん(中央)にダンスを指導した青木さんと妻の洋子さん=2005年5月
ドラマのロケで俳優の船越英一郎さん(中央)にダンスを指導した青木さんと妻の洋子さん=2005年5月
古丹別中学校野球部時代の青木さん(前から2列目、右から2人目)=1958年
古丹別中学校野球部時代の青木さん(前から2列目、右から2人目)=1958年

  苫小牧市内で最も古いダンススクールの開設者、青木憲隆さん(77)は、社交ダンスの魅力に触れて以来50年間、選手として、プロの指導者として活躍を続ける。小さな頃から体力自慢。野球に打ち込み、ボブスレーの五輪強化選手になったこともある。「一生ダンスに関わっていきたい」。美しく伸びた背筋と柔和な笑顔で話す青木さんを慕って、多くの生徒たちが通ってくる。

   福島県郡山市の呉服店で5人兄弟の次男として生まれ、1歳半で留萌管内苫前町古丹別に移住した。古丹別中学校では野球部に入り、二塁を守った。中体連に出場し、管内の地区大会で優勝したこともあった。

   高校卒業後、都会への夢を追って上京した。「体を動かすのがとにかく好き」で社交ダンスのとりこに。腕を磨き、新宿コマ劇場でホールスタッフをするうち、「人に見てもらうことも好きになった」。その後、知人の紹介で札幌市内の森永牛乳札幌販売(現森永乳業販売)に入社し、配達業務を担った。この頃、北海道ダンス競技大会に出場し、見事に優勝。ダンス界へのデビューを果たした。25歳だった。

   それに飽き足らず、新聞記事で見つけた札幌五輪のボブスレー強化選手にも立候補した。危険な競技で50人の選手が1年で半分以下になったといい、五輪開催の1972年には選手会長まで務めた。しかし、五輪選考レースで最終まで残りながらも、足を骨折。選手を諦めざるを得なかった。「監督の残念な顔が忘れられないが、回復後はボブスレーへの情熱を社交ダンスに向けられるようになった」とプラスに考えている。

   会社を辞め、不動産などを扱う青木商事を設立すると、79年に社交ダンス講師となるためのプロ資格を取得。80年に千歳市錦町で青木ダンススクールを開校したが、当時から苫小牧市民も熱心に通ってくれた。「5年ほどすると7割近くが苫小牧市民になっていた」といい、地域からの強い要請で85年、苫小牧市音羽町に教室を開校した。その後は表町にも教室が誕生し、やがて全国大会のチャンピオンを出すまでに成長した。

   2005年には2時間ドラマのロケーション撮影で、俳優の船越英一郎さんが来苫。豪華客船の船長という役どころで、プロ級の社交ダンスの腕前を持つ設定に協力し、ダンス指導を引き受けた。「いい思い出です」と目を細める。

   道内外の愛好家との交流や小学校の授業、クラブ活動への協力、ボランティア活動の振興に充てるための寄付活動など、ダンスを通じた社会貢献活動にも熱心だ。

   人口減少に伴い社交ダンスの競技人口は少しずつ減って、教室も表町の一つになったが、中高年を中心に愛好者がダンス熱を支えている。これまで小さな子どもから80代まで、数え切れないほどの生徒を指導してきた。「技術だけでなく『みんなで仲良く踊る』というダンスの基本を伝えていきたい」と目を輝かせた。

  (半澤孝平)

   青木 憲隆(あおき・のりたか) 1943(昭和18)年2月、福島県郡山市生まれ。80年、青木ダンススクールを設立。2014年から北海道プロ・ダンスインストラクター協会苫小牧支部長など舞踊関係の要職を歴任。苫小牧市双葉町在住。

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