私の本棚には今も父の形見である一眼レフカメラが置いてあります。父は学徒出陣で満州に行き、シベリアに2年間抑留されました。抑留されていた頃のことはほとんど話してくれませんでしたが、私が中学生くらいになると、零下40度の中で川から砂利をすくってシベリア鉄道の支線の敷石にする作業をやったこと、夏はアブの大群に襲われたことなどをぽつぽつと話してくれたこともありました。その時は、子ども心に、よく生きて帰ってきたと思ったものです。
私が覚えている最も古い父のはっきりした記憶は、父が勤めている新聞社主催の浮世絵展をモスクワで開催するために、横浜港から客船に乗った場面です。確か船でウラジオストクに行き、シベリア鉄道でモスクワに行く旅程だったと思います。私が5歳の時です。客船のデッキにいる父に紙テープを投げても届かないので、叔父に投げてもらいました。その時にモスクワに持って行ったのが、今私の本棚にあるカメラなのです。そのカメラを見ると、抑留されて建設作業をしていた鉄道に乗る父の気持ちはどうだったのか考えてしまいます。
生前の父は、金銭面では締まり屋ではありませんでしたが、朝、洗面をするときに不思議な行動をしていました。一年中、必ず洗面器1杯のお湯だけで、洗面、ひげそりからくしを洗うまで全てを済ませるのです。幼い頃は考えもしませんでしたが、父が軍隊か収容所でやっていたことを繰り返しているのではないかと気付いた時、はっとしたことを覚えています。
また、私が大学でマルクス経済学を専攻すると父に伝えた時の反応も忘れられません。マルクス経済学は共産主義国家をつくるための学問ではなく、資本主義社会を分析する学問だと説得しましたが、父は「頼むからやめてほしい」と言い、その根拠となるたくさんの本を学生寮に送ってきました。私はそんな父の気持ちを無視して自らの意思を通しましたが、その時の父の言動は切羽詰まったものだったと思います。
学徒出陣とシベリア抑留を経験した父と共に暮らした私が今生きていることを考えると、まだ戦後は終わっていないと自分事として実感します。そして、父の内面にある心情のほんの一部しか理解していなかったと感じます。人類にとって何よりも大切なのは平和です。一日も早く世界中が平和になることを祈っています。(元AIRDO社長)