嫌われませんように

  • 土曜の窓, 特集
  • 2023年8月12日

  中標津空港に着いた。羽田を出たときはまだ蒸し暑い9月の風が吹いていて、黒いTシャツが肌にペタリとくっついていたが、空港に降り立った瞬間、羽織るものを持ってこなかったことを悔やんだ。なかしべつ、って、こういう漢字を書くのだね、と言いながら迎えに来てくれた先輩の車の助手席に座った。

   「急に来たね。中標津。ムツ牧場を目指すんだよね?」「はい、ムツゴロウさんのところに」「いや、緊張するよ俺」「会うのは、わたしですよ」「いや、そうだけど、俺だってあいさつするし、一緒にいるわけだからさ!」「中標津に住んでいて、ムツゴロウさんお会いになったことないんですか?」「ないよ! スターだよ! ないよ!」

   久しぶりに会った先輩はひどく興奮していた。

   「写真撮ってもいいのかな?」「ダメです」「厳しいな!」「仕事ですから」「仕事なの?きょう。仕事だったの?」「人生の仕事、と言いますか、ともかく一大事ですから。写真撮ってくださ~いとか言ってる場合じゃないんですよ!」「そうか」

   「もちろん、ムツゴロウさんはスターです。わたしにとっても。ですが、わたしが、ムツゴロウという名前を襲名させてください、とお願いするわけですから、きょうは」「え、え!なんで?」「動物愛護活動してるじゃないですか、わたし。早く活動を広めたくて。ならば、動物と言えばムツゴロウさんだな、と思って。お名前でお力いただけたらと」「え、襲名なんて、できるの?」「はい」「できるの?」「先輩が、写真撮ってくださ~いと言わなければ、確率は上がりますので」「そうか、わかった」「くれぐれもミーハーな事はしないでいただいて」「わかった」「先輩」「はい」「わたしとムツゴロウさんの写真は、撮ってください」「わかった」「スマホで、横と縦で」「わかった」

   緊張からか、やたら物分かりの良くなってしまった先輩との道中。わたしだって本当はものすごく緊張していた。粗相のないようにしたい。本心は、興味がある人には出来るだけ会いたくない。嫌われたくないからだ。なんとネガティブな発想。嫌われませんように。中標津の青空と白い雲を見上げた。

   「あ、ここかな」。先輩は言った。前を見ると、丸太で組み立ててある、それはそれはしゃれた家が現れた。(続く)

  (タレント)

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